日ごとの糧を毎日
ルカによる福音書 11章1~14節
本日の福音書は「主の祈り」。弟子たちが「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ってきたので、イエスが主の祈りを授けます。またそれに続けて、「求めなさい、そうすれば与えられる」と弟子たちに教えています。
わたしたちはいつもこの「主の祈り」を唱えています。そしておそらくですが教会が始まった時からずっと、この祈りは唱えられ続けています。教会にとってとても大切な祈りであるのです。わたしはこの「主の祈り」と「求めなさい、そうすれば与えられる」の組み合わせは大切だと思っています。わたしたちは「祈りは必ずしもかなえられるものではない」とか「祈ったからといってそうなるとは限らない」ということを体験的に知っています。お腹が痛い時に神に祈っても、なかなか痛みが過ぎ去らなかったり、「病気が治りますように」と祈ってもすぐに完治したりするわけではありませんよね。だから、「効果がないのに祈り続けるおめでたい人たち」と言われてしまうこともあります。でも祈り続けることが大切なのは、「それは実現する可能性がある」という思いを持ち続けることだからです。そしてそれが段階的にでも、かなえられているという現実は確かにあるのです。
「わたしたちの日ごとの糧を毎日お与えください」とわたしたちは祈ります。「毎日の食事」が「毎日」あること、今の日本ではほぼ当たり前になりました。だから「食事を与えない」ことで罰されるようになっています。(もちろん例外はありますよ)でも100年前の日本だったら、全然当たり前ではありませんでした。多くの人間が「日ごとの糧を毎日」食べられるようになったのって、ここ100年以内のことです。もちろん世界中に目を向ければ「日ごとの糧を毎日」食べることができない人はたくさんいますが、人類は部分的にでもこの祈りを叶えてきたのです。実に「日ごとの糧を毎日」与えてほしいというのは、人類にとってとても大事な祈りで、多くの人が今も願い続けていることなのです。
「世界中の人間が、せめて飢えないでいてほしい。」というのは大きな願いです。でもわたしたちはその願いが少しでもかなえられるように、例えばフードバンクであったり、食品ロスに貢献することであったり、様々なことに少しずつでも手を貸しています。もし、わたしたちが「日ごとの糧を毎日お与えください」という祈りに「まったく意味がない」と思っているのであれば、そんなことに協力することはまったくないでしょう。でも、「もしかしてでも叶ったらいいな」と思っているからこそ、わたしたちは少しずつでも協力します。人は一人では生きられないからこそ、人間が社会的な生き物だからこそ、わたしたちはいつも、自分以外の誰かのために祈るのです。
この主の祈りの中で一番具体的な祈りはこの「わたしたちの日ごとの糧を毎日お与えください」だと思います。毎年「み国が来ますように」とお祈りしますが、「み国」って何だろう、とかなぜ5人を教会に導くことが「み国が来る」ことになるんだろう、とか考えてしまいます。でも、「誰もが飢えない世界が来てほしい」というのは、わかりやすい、とても大切な理想であると思います。「せめてその一部分だけでも叶えたい」と思う人が少なからずいるからこそ、すこしずつでも世界は良くなっているのだと思います。一人一人の力は小さくても、なんか進んでいるように見えなくても大丈夫です。長い目で見れば、行きつ戻りつしながらも、少しずつ前進しているのです。
祈りましょう。すべての命のために。そして、わたしたちが祈り続けるのなら、それは確かに、自分の生きている時かはわかりませんが、進んでいくものなのです。
