定期診療

2026年06月07日

マタイによる福音書 9章9~13節

 三位位一体主日が終わり、本日から教会暦は聖霊降臨後の「緑」の期節に入ります。今年はA年なので、マタイによる福音書が順番に読まれることになります。本日の福音書は「マタイを弟子にする」場面。徴税人マタイを弟子にした後、食事をしているとファリサイ派の人々に咎められますが、それに対して「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなくて病人である」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言って退けます。

 確かにイエスの言う通り、病気の人には医者が必要です。しかし一方で、わたしたちは病気のとき、必ずしも医者に行くわけではありません。風邪などの場合、よっぽどひどくない限り、市販の薬で何とかしたり、休むことで治したりすることも多いのではないでしょうか。なるほど、イエスが「健康な人」と言わずに「丈夫な人」という言い方をしたのもわかる気がします。「丈夫な人」は、ちょっと休めば良くなる、ということも含んでいるのかなと思うからです。そういう意味では医者が必要な人は少ないのかなと思えます。

 イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言います。ここで言う「罪人」というのは、この字のイメージ通りの人ではありません。そもそも「罪」と聞くと、多くの人は自分のことを「罪人」だとは思わないはずです。だって、特に法を犯しているわけではありませんからね。ここで言う「罪」とは、ユダヤ教の律法によるルールが守れない人のことを指すのですが、そもそもそのルールは「守ること」だけに特化していないと守ることが難しいものでした。また、イエスの時代ですらそうなのですから、現代を生きるわたしたちにとっては、ほぼ不可能と言ってもいいくらいのルールです。ですから言ってしまえば、人類のほぼ全員が「罪人」になってしまうのです。もちろんこれは「ユダヤ教」の「罪」の概念です。教会ではどう考えているのかと言うと、「罪」とは「神に向かって生きることができないこと」である、ということになります。少しわかりにくいですね。人間は「神に向かって生きる」ように創造されました。しかし人間には自由意志があります。だから自由に選んだ結果、神ではないほうに向かうこともあり得ます。(それを歪んでいるというかはともかく)矢が的に向かって飛ぶだけではなく、的から逸れてしまうように進むとイメージするとわかりやすいでしょうか。そうやって「逸れる」ことを「罪」と呼び、的の方に「軌道修正する」ことを「悔い改め」と呼びます。法律を破るというのは、逸れていった先に起きる出来事で、「罪」はもう少し前から始まっていますよ、ということです。こう考えていくと、やっぱり人類の多くは「罪人」になってしまいますね。神に向かって生きる生き方を、常に実践できる人はほとんどいないからです。わたしも無理です。

 それならば、もうどうしようもないんじゃないかと思うかもしれません。しかし、むしろ、だからイエスが来たのです。「神に向かう」生き方を常にできる人はいません。だからこそイエスに出会い、軌道修正して神さまのほうに向きなおる、何度でも何度でもそれを繰り返して進んでいく、そこが大切なのです。それでもなかなか自走できる人は多くはないでしょう。そうやって、何度でも神さまの方を向けるように、いつも隣を歩いてくれるのがイエスだということです。人間には慢性的な病気もあり、定期的に様子を見るために病院に行っている人もいるでしょう。そのお医者さんと同じです。そうやって、定期的にイエスと会うためにあるのが、教会の礼拝です。そして日々の祈りです。イエスによる定期診療にいつも通って、少しずつ軌道修正しながら進み続けたいものです。


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