人目が気になる
マタイによる福音書 10章24~33節
本日は聖霊降臨後第4主日。福音書はマタイから「ベルゼブル論争」と「人々を恐れるのではなく神を恐れなさい」と説いた場面。12人の使徒たちを派遣するときにイエスが使徒たちにかけた言葉の一部です。
人間は集団で生きている生き物です。個人でいるときには気になりませんが、何人かいると「人目が気になる」ことがあるものです。例えば「身だしなみ」という言葉があります。完全に人目が気にならないのであれば、どんな格好をしていてもいいはずです。ですが、わたしたちは基本的に、それなりに服を着て、それなりに髪を整え、髭を剃り、化粧などをして顔を整えます。お風呂なども定期的に入って清潔を保ちます。たまにさぼったりしますが、大きく逸脱することはあまりありません。あったらニュースになりますね。「不審者に気を付けてください」って。基本的に、わたしたちは気にしていないようで、結構人目を気にしています。
時々「周りの人にどう思われているか」をものすごく気にする方に出会います。もちろんほとんどの人が多かれ少なかれ気にするものだと思いますが、気にし過ぎて自分のしたいことまでできなくなったり、自分を押し殺してしんどくなったりしてしまうようだと話は別です。会議などでも周りの目を気にするあまり、意見が言えなくなってしまう人を見かけます。会議を主催することも多いものですから、なるべく出ている人には発言をしてもらうように、そして「何を言ってもいいような」雰囲気を保つようにと心がけてはいますが、なかなかそうはいかずに「沈黙」を作り出してしまうこともあります。難しいものです。一方で、まったく気にしないで発言するあまり、周囲と摩擦が大きくなってもめごとに発展してしまうケースもあります。「気にし過ぎる」とよくないですし、「気にし過ぎない」のも大変です。みなさんは「気にしていないようで気にしている」「気にしているようで気にしていない」の間で、絶妙なバランスを取って生きているのだと思います。
「信仰」というのは結構デリケートなものだとされています。「政治と野球と宗教の話はするな」と言われているように、明らかに「揉めそうな話題」だからです。確かに何も知らない人と話をしていて「キリスト教は出ていけ」的な言い方をされればちょっと構えますし、初対面の人に自分の職業が「牧師」であることを言うかどうかは結構迷います。それだけで引かれることも多く、それで会話が止まってしまったり、あからさまに離れていったりされた経験もあるからです。だからこういった話は、少し関係性ができてからするものだとも思います。でも一方で、確かにイエスの言うように「隠れているもので知られずに済むものはないからである」というのはその通りで、いつかは話すタイミングが来るものですし、そこに触れないで話をするのって結構難しかったりします。
多分ですが「誰が何と言おうと表明する」ことは、大事なことだと思うのです。やりすぎなければですが。人には必ず自分の意思があります。人と人とが共に生きるとき、誰かが「押し殺して」いる状況は、あまり「共に生きている」とは言わないのではないでしょうか。自分の考えていることを、自分の信念を、自分の信仰を、きちんと口に出して言うことは、神さまの御心に適うことです。もちろん、いきなりはっきり言いだすことが難しいのもよくわかります。牧師をやっていながら言えなかったりします。だからまず、教会で、あるいは自分の部屋で、神さまに向かって「声を出して祈る」ことを大切にしましょう。口に出してみるのです。「わたしは神を信じます」と声に出して言うことが、最初の入口です。「人目を気にせず」自分の信仰を自由に口に出せるようになりたいものですねね。
