冷たい水を一杯

2026年06月28日

マタイによる福音書 10章34~42節

 本日は聖霊降臨後第5主日。福音書はマタイから「平和ではなく剣をもたらすために来た」とイエスが言う場面。わたしたちのイメージするイエスの言葉とは違い、厳しく言う姿に、ちょっとびっくりしてしまいます。後半では「受け入れる」ことについて「わたしの弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と伝えています。

 「わたしは敵対させるために来た」ということと「受け入れる」ということは、対立しているように見えます。「争いごと」が多くなれば人はどんどん不寛容になっていきます。世界各地で移民と元から住んでいた人たちが争っています。日本でも各地で争いがあり、外国人との対立が深まっている地域があります。わたしたちの感覚だと「郷に入っては郷に従え」というのが当たり前と思うのですが、そうではなくて「自分たちの習慣をそのまま持ち込む」のが当たり前の人たちも多く、なかなかその溝は埋まりません。「軒先を貸して母屋を取られる」ようなこともあり、どうするのが正解なのか、わからないまま対立だけは深まっている印象です。

 「違い」を受け入れるというのはなかなか難しいことです。今日は「出会いと交わりの日」ですが、教役者でも自分の勤務したことのある教会以外のことはよくわからず、行ってみて初めてその「違い」に驚くことがよくあります。今までは赴任して初めて知り、時に牧師と教会が「敵対」するようなこともありました。お互いに「当たり前」と思っていると、「違い」があることにすら気づかず、「当たり前」と「当たり前」が対立してしまうことはよくあります。この企画を続けてきて、わたしたちは「お互いの当たり前を知る」ことの大切さに気が付くことができました。さらに今、わたしたちは教区合併を進めようとしています。同じ教区の中ですらたくさんの「違い」がありました。教区を越えればその「違い」はもっと大きくて、もしかしたら大きく「敵対」してしまうかもしれません。だからこそその中で「受け入れる」ことの大切さがクローズアップされてくると思うのです。

 「受け入れる」というのはどういうことでしょうか。理想的にはお互いの「違い」を受け入れて、お互いに納得できる形に調整していくことになるでしょうか。しかしなかなかそういう形にはなりませんし、そもそも「違い」があることすらわかってない場合も多いのです。むしろ何かをしようとして初めて、その「違い」にびっくりして「対立」することの方が多いのではないでしょうか。「こうでなければならない」という言葉を、今までずいぶん聞いてきました。「礼拝のやり方」「様々な式文の使い方」「聖歌やチャントの使い方」「平日の牧会のやり方」「牧師の生活」「牧師の交通手段」「献金の額」などなど、わたしたちが「当たり前」と思っていることはたくさんあります。今までわたしが牧会的に関わったことのある教会は9つほどですが(今は無い教会も含みます)、それぞれ「当たり前」は違いました。それぞれその形には事情があり、「これが正しい」と上から断じることなどできない状況がありました。あらかじめ知って対処するのはほぼ不可能でした。

 しかし、そんな中で一番ほっとするのは「冷たい水を一杯」頂いたときも知れません。「これがこの教会の当たり前だから」ではなく「ちょっと考えてみましょう」という言葉だったり、「お茶にしましょうか」というブレイクだったり、そういった小さなことです。わたしたちはお互いに「対立」の状況だとしても、相手に「冷たい水を一杯」差し出すことはできるはずです。そしてその「冷たい水の一杯」が「敵対」を壊していくきっかけになるかもしれません。わたしたちに大切なのは「対立」の中にありながらも、相手のために「冷たい水」を用意する心です。


Share
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう