荷物の重さはどれくらい

2026年07月05日

マタイによる福音書 11章25~30節

 本日は聖霊降臨後第6主日。福音書はマタイから「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい」とイエスが言う場面。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とイエスはわたしたちに語り掛けます。

 「軛」とは、牛や馬などに装着し、荷車や農具などを引かせるための器具です。当然ですが、牛や馬は自分で装着したり、外したりすることはできません。わたしたちの人生に起こる様々なことを「荷物」にたとえ、それを「引く」ために「軛」をつけているのだということです。

このたとえ方には大切なポイントがいくつかあります。一つ目はわたしたちは人間ですから、牛や馬とは違って『自分で「軛」自体を外したり付け替えたりすることができる』ということです。しかも「自分の意思で」です。軛につながっているのは荷車だったり鋤などの農具だったりしますが、何を引くのかを選ぶことができるということです。でも、たくさんの人が「できない」と思い込んで苦しんでいます。また、自分の分ではない荷物を載せてしまって、荷車が満載になって一歩も動くことができなくなることもあります。本来は「自分の荷物だけ」でいいはずなのに、たくさんのものを引き受けてしまって、時に引き受けすぎてしまっていることに気が付かないでいることも多いのです。

二つ目は、自分で選べる一方で『わたしたちは「軛」から完全に自由になることはできない』ということです。少なくとも、自分で自分の荷物は引く必要がありますし、例えば子育てや介護など、「自分以外の荷物を載せた荷車を引く」ことから完全に自由になることはできません。子育ての場合は、だんだんと「自分の荷物を自分で引くんだよ」と教えていって、段々に軽くなっていくものですが、「介護」などの場合はむしろ負担が増えていったりするものです。そもそも、わたしたちがしている「仕事」というのは、誰かの荷物を選択的に引き受けることです。すべての人が自分で自分のことをして、自分で食べ物や着るものを一から作ることができれば、「誰かの荷物」を引き受けることはありませんが、人間は関わりあう生き物なので、必ず誰かの荷物を引き受けることになります。

これらのことを踏まえて考えてみましょう。なぜイエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言ったのでしょうか。そもそもわたしたちは自分たちの生活で精いっぱいなのに、「教会」という新たな「軛」を引き受けてしまえば、余計重くなって身動きが取れなくなってしまいます。これはよくあることで、教会に通い続けることが難しくなり、足が遠のいてしまう事例をたくさん見てきました。だから単純に「教会に通って、教会への奉仕をすれば大丈夫」ということではありません。むしろ教会への様々な奉仕は「できるとき」に「できること」を引き受ければいいことです。これは「仕事」ではないからです。イエスが「わたしに学びなさい」と言ったのは、「休む」ためです。では「休む」とはどういうことかと言えば、イエスに聞いてもらうことです。つまり、自分の「重い荷物」についてイエスに話す、つまり「祈る」ことです。そして、その荷物をイエスと一緒に整理して、引き受けすぎていないかを見つめなおすのです。そうやって一つずつ荷物を降ろして「軽く」なっていくのです。イエスという基準によって、わたしたちは自分の重荷を整理する、そのために教会に行って祈りを共にささげたり、教会での奉仕を通して「イエスがしてきたこと」を学んだりします。ただ単純に勉強すればわかることではなく、わたしたちが体を通して学ぶことでもあります。

みなさんの「軛」につながれている「荷物」、どのくらいの重さですか。イエスと一緒に見直してみましょう。


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