蒔いてから耕す
マタイによる福音書 13章1~9,18~23節
本日は聖霊降臨後第7主日。福音書はマタイから「種をまく人のたとえ」とその説明。蒔かれた種はその環境によって実り方の変化がある、とたとえで話し、「聞く耳のある人は聞きなさい」とイエスは語り掛けます。
わたしたちが種を蒔くとき、畑を耕し、土に肥料を入れて整えてから行うものです。しかし一説では、当時のこの地域の農業は「種を適当にばらまいて、その上で耕して鋤き込む」というやり方なので、そもそも論として芽が出るかどうかも怪しく、またかなり無駄になる種もあったようです。畑の範囲も別にはっきりと決まっているわけではなく、畑にしようと思ったところに種を適当に蒔き、それから耕して畑にしていくという形でした。だから風が強い時に種を蒔けば、石だらけのところに落ちたり、別の植物が(例えば茨が)茂っているところに落ちたり、道端に落ちたりしてしまったわけです。道だって、今の道路のようにはっきりと決まっているわけではなく、何となくこの辺に道があった、という形です。(舗装されている道は少ないです)畑の真ん中が道になってしまうこともあったでしょう。わたしたちの農作業の仕方からするととても奇妙に聞こえますが、イエスの話を聞いていた人たちにとってはわかりやすかったのでしょう。もしかしたら「種まきあるある」だったのかもしれません。そして、今この話を聞くわたしたちにとって大切なのは、この話の前提です。つまり「種は蒔いてから耕すものだ」ということです。「耕してから蒔く」のではないのです。
イエスは「種を蒔く」ことを、「御言葉を聞く」こととして話しています。つまり「宣教」ということですね。人々に神さまのことを伝えることを「種を蒔く」と言い現わしています。「種の蒔き方」=「宣教」にもいろいろあります。礼拝をやっていることもそうですし、たくさんの文章をわたしたちは発行しています。外でいろいろな集会を行うこともありますし、最近はデジタルツールを駆使していることもあります。しかしその一方で、教会はだんだん人数が減ってきていたり、高齢化してきていたりと、何となく元気が無くなってきています。そうなるとだんだん種を蒔くことがむなしくなってきてしまったりするのです。
「種」には「発芽率」があります。買ってきた種の袋には書いてありますが、高くても80%くらいで、少ないものだと30%程度のものもあります。しかもこれ、ある程度耕して環境を整えた上の数字ですから、特に整備されていない場所にまけばもっと低くなるでしょう。「御言葉の種を蒔く」ことを考えると、「蒔いてから耕す」わけですから、なかなか芽が出ないのは当たり前です。しかも芽は出ても、全部が全部成長するとは限りません。「良い土地」と表現されているのは、最初から種が芽を出して成長する土壌があったということです。現代の農業のように先に耕して肥料を施して整えているわけではありません。よくない土地だった場合、後から耕すこともできますが、耕すときも適切にやらなければ枯れてしまうものです。教会は2000年間、「御言葉の種」を蒔き続けていますが、むしろこのやり方でよくもこれだけ広まったものだ、と思わないでもないのです。先にたくさん準備しておけば、もっと効率的だったのではないかと思うこともあります。
でもわたしは、昔ながらのこの「蒔いてから耕す」やり方で十分なのではないか、むしろこの方が、神さまの歩調にあっているのではないかと思っています。先回りして準備することは、神さまなのだからいくらでもできるはずです。でもそうなっていないのなら、そうしないほうがよいのです。なかなか芽が出ないかもしれませんが、「蒔いてから耕す」ことを大切にしていきましょう。
