純粋を求めない
マタイによる福音書 13章24~30,36~43節
本日は聖霊降臨後第8主日。福音書はマタイから「毒麦のたとえ」とその説明。人間の世界は麦と毒麦が入り混じった世界であり、世界の終わりの時に麦と毒麦は分けられる、と語られます。そして「耳のある者は聞きなさい」とイエスは呼び掛けるのです。
確かに、自分の周りを見回してみても、「正しいもの」と「正しくないもの」が入り混じっているということはよくわかります。そもそも自分の行動だって、いいこともすれば悪いこともしています。時々頑張って「正しいことだけをするように頑張ろう」と思うことがないわけではないのですが、なかなかそうできないのが現状です。しかも、これも残念なことに「正しいことだけが正しいわけではない」ことも多いのです。「正しいこと」だけだと疲れてしまうこともあります。
「信仰」の世界において、わたしたちは時々「純粋」であろうとします。「正しい信仰を突き詰めていけば、自分を聖なる者としていけるのではないか」と考えたり、教会の教えを突き詰めて「正しい」ことだけにしようとしたりするのです。特に教会の元気がなくなっている時ほど「正しい行動」にすがりたくなったりするのです。もちろんこれは「教会」のことだけに限らず、人間の集団では起こりうることです。様々な団体で、「より純粋であろう」として分裂を繰り返したり、あまつさえ殺し合いになったりすることもありました。
「純粋」であることは、良いことのように感じられます。例えばペットの世界だと様々な「品種」があり、「血統書」で証明することで価値が上がったりします。しかし、こと生き物の世界では、それが良いことだとは限りません。なんだかんだで「雑種強勢」という言葉もある通り、雑種の方が強いことが多いのです。また「生物多様性」という言葉があります。例えば「猫」だったら、様々な品種がいることで、大きな出来事が起きても生き延びやすくなります。人間もそうです。いろいろな特性を持つ人がいることで、トータルで「人間」が大災害にあっても生き延びやすくなったりします。効率を考えるのなら純粋な一つの人種があればいいのかもしれませんが、それだと同じ弱点を持っていることにもなるので、一つの病気が広まれば全滅してしまう可能性が高くなります。一つの食べ物しか食べられなければ、その食べ物が無くなった時に餓死を待つしかありませんが、他の食べ物を食べることもできれば生き延びやすくなります。「良い」か「悪い」かはともかくとして、たくさんの特徴を持った人が集団の中にいることで、その集団は生き延びやすくなるのです。
「教会」のことを、「信仰」を持つ人の集団のことを、「一つのからだ」と言うことがあります。人間のからだも不思議なもので、色々な特徴を持つ部分が集まって一つになっています。脳みそは偉そうにしていますが、口が食べて胃腸が消化して栄養を運んでもらえなければ何一つできません。「わたしたちは多くいても一つのからだです」と礼拝で唱えますが、たくさんの良いものと悪い者の混合体がわたしたちのからだです。そしてわたしたちの行いも、良いことだけしているわけではありません。「まぁこれくらいしょうがない」と思っている、ちょっと悪いことだったり、ちょっとさぼったりすることって、あると思います。わたしたちの心も体も、色々なものが共存しているときは落ち着いていますが、「純粋」であろうとすると、特に「良いものだけで」あろうとすると、途端に不具合を起こしてしまいます。わたしたちは「純粋」であることに耐えられないのです。
できるなら早く「毒麦」を抜いてしまいたい、とわたしたちは思います。でも「自分の中においてもそれは放っておきなさい」というのが今日の大事なメッセージだと思います。
