天の国は偶然出会う
マタイによる福音書 13章31~33,44~49a節
本日は聖霊降臨後第9主日。福音書はマタイから「天の国のたとえ」。「からし種」、「パン種」、「隠された宝」、「良い真珠」、「海に降ろす網」の5つのたとえが語られます。これらのたとえをテーマで分けると「膨らむ」「広がる」「探される」「選ばれる」ということになるでしょうか。
一つ一つのたとえについては、みなさんよく知っているものと思います。「パン種」、今で言うところのイースト菌ですが、確かに入れると入れないとでは膨らみ方が大違いですし、ホームベーカリーでパンを焼くとき、ちょっとお高いイーストを使うと風味まで大違いです。「からし種」は確かに小さい種ですが、そこから大きく育つのはよくわかります。いろいろな植物の種も芽を出せば種より大きく育ちますから想像しやすいものです。「隠された宝」のたとえから少し変わります。おそらく宝を見つけたのは「偶然」です。本当に欲しいものを見つけたら、自分の全財産を売り払っても手に入れたい、と思うことはあるでしょう。実行に移すかどうかは別ですけども。「良い真珠」も「隠された宝」と同じですが、「商人」の話なので、いつも「良い商品を探している」ことがポイントです。でも探して探して、ようやく見つけたのならすぐに確保しようと思うのは自然です。そして最後の「漁をするための網」のたとえもまた違うイメージになります。これは先週の「毒麦」のたとえとも共通するのですが、「網」は良いものも悪いものもまとめて救い上げます。地引網の体験をすると、魚がいろいろ、食べられるものも食べられないものもかかりますが、ついている漁師さんたちがすぐに選り分けて、食べられるものと食べられないもの・危険なものを教えてくれます。
こうやって「天の国」のたとえが並んでいると、「天の国」って何だろうということを考えがちなのですが、今日はここで「天の国を求める人」はどうするのか、ということを考えてみましょう。どんなものかわからないのに求めるのは変だと感じる人もいるかもしれませんが、わたしたちが「求めている」ことって、はっきりした「これが欲しい」という欲求より、「何か足りないものがある」という漠然とした気持ちなのではないでしょうか。「この商品」が欲しい、というよりも、偶然店頭で見かけた「あるもの」、例えば文房具など、別に何でもいいんですが、を見て「ああ、これが欲しかったんだな」と思ったこと、ありませんか。何の気なしに読んでいた本の中に「ああ、これだ」と思ったことはありませんか。欲しかったものに出会うのは「偶然」であり、むしろ出会ってから気が付くことの方が多いのではないでしょうか。ですから、むしろ求めるものを具体的にするよりも、色々なものに出会っていくことの方が大事なのではないかと思うのです。そして、それは具体的になった「大きなもの」だけとは限らず、まだ「種」のような小さなものでもいいのだと思います。それがいつか大きく膨らむときが来るからです。そして、わたしたちが出会うことは、良いことも悪いこともあります。選択的に良いことだけを選ぶことってなかなかできません。漁をすると、目当ての魚もそうでない魚も獲れます。畑をやっていても、きちんとした形のものだけが採れるというより、色々な形のものが採れるものです。むしろ、わたしたちは出会ってみてから選り分けていることの方が多いのではないでしょうか。出会うのは、良いことだけとは限りません。しかも出会うのは「天の国の種」だったりします。でも、わたしたちがその「種」を大事に育てると、大きな実を結ぶかもしれません。それは普段の生活の中でも同じです。そして、もう一つ大事なのは、「わたしたちはもう見つけているかもしれない」ということです。まだその「種」があまりに小さいので、見えていないだけかもしれませんね。そんな「天の国」が育つよう、日々の生活を続けていきましょう。
