満たされる

2026年08月02日

マタイによる福音書 14章13~21節

 本日は聖霊降臨後第10主日。福音書はマタイから「五千人の給食」。洗礼者ヨハネの死の知らせを聞いた後、イエスは一人で寂しいところに退かれますが群衆が集まって後を追ってきます。弟子たちは群衆を解散させるようにイエスに進言しますが、イエスは「あなた方の手で食べ物をあげなさい」と弟子たちに言います。そこには5つのパンと2匹の魚しかありませんでしたが、イエスが祝福してパンを裂くと、五千人が食べて満腹することができました。女性と子どもを除いて五千人がいたと伝えられていますが、そう考えると一万人近くいたのかもしれませんね。

 街を歩いていると、時々「人だかり」を見ることがあります。露店だったり、弾き語りをしている人だったり、似顔絵かきがいたり、はたまた人気店の行列だったりします。他にも政治家の演説かもしれませんし、ライブをやっていたりするかもしれません。この辺ではあまり見ませんが、繁華街だったら喧嘩などで人だかりになっていることもありますね。その出来事に「興味」を持つ人が多いと、人が集まってくるわけです。イエスのところにも、多くの人が集まってきました。それは「イエスが何かしてくれる」という興味を持たれていた、ということです。イエスが行くところではたくさんの人が集まってイエスの話を聞き、イエスが病人を癒やすところを見ようとする人が集まってきました。もちろん癒されたい人もですね。それだけでなく、イエスの周りには「何か満たされない」人々が大勢いたのです。

 現代日本に暮らすわたしたちは、基本的に「飢え」とは無縁です。味のことさえ気にしなければ、とりあえず腹を満たす手段はたくさんあります。だからなかなかわかりにくいのですが「イエスの周りに集まっていた人たちは常時飢えているような人たちがほとんどだった」という側面を忘れてはいけません。これほど食べ物が満ちているのは現代先進国だけです。歴史的に見ても、支配者階級を除けば、みなうっすら飢えている方が多いのです。イエスについてきた群衆の中でいつも「満腹している」人たちがどれほどの数いたでしょう。聖書で「満腹した」と書かれているのはこの「五千人の給食」のできごとくらいです。群衆たちはイエスによって「満たされた」状態になりました。

 一度「満たされた」ということはとても大切なことです。なぜなら「満たされた」状態でないと、自分が満たされることが優先になってしまうからです。子どもの成長を見ていると、「満たされる」ことを知っている子と、「満たされない」思いを抱えている子では、周囲へのかかわり方が違うような気がするのです。大人でも「満たされない」「満たされたい」という思いを抱えている人は結構います。厄介なのは、その「満たされない」「満たされたい」という思い、何が足りないのかは自分ではわかりにくいことです。後々振り返ってみて、「ああ、これが欲しかったんだ」と気づくことはあっても、「自分にはこれが足りないから満たしてください」という欲求にはなかなかなり得ないものです。足りずに周囲をに働きかけようとすると、無理して枯渇してしまうこともあります。

 だからこそイエスは、まず「満たす」ことを大切にしました。満たされることで、人は周囲に目が向くようになります。「満たされた」という安心感があって、初めて周囲に目を向けるようになるのです。「食事」という日々のことですが、これがなくては生きていけないことに目を留めたのです。わたしたちは多くのもので満たされていますが、何かに「飢えて」います。わたしたちの「満たされているもの」と「飢え」を見つめなおしてみましょう。わからないことも多いかもしれません。でもわたしたちが「満たされた」と感じるとき、無理せず周囲と関わる道が開かれるのです。


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