いまのままでいいよ

2025年08月10日

ルカによる福音書 12章32~40節

 本日の福音書は「目を覚ましている僕」のたとえ。「小さな群れよ、恐れるな。」とイエスは弟子たちを励まし、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言います。そして「人の子は思いがけない時に来るから」「目を覚ましていなさい」と告げるのです。

イエスはたびたび、このたとえに限らず「神の国」について語る時、「目を覚ましていなさい」と言います。「いつ来るかわからないのだから」ということなのですが、わたしはいつも「ちょっと厳しいよな」と思っていました。だって物理的にずっと目を覚ましているというのは難しいですし、いつ起こるかわからないことを警戒し続けるというのはとても大変なことだからです。わたしたちはある程度先の予定がわかっていると安心しますが、先に予定があっても「いつそれがあるのかわからない」ことだと、なんとなく落ち着かなくなったりするものです。宅急便の時間指定をしていて、例えば「午前中」という指定だった時、朝の早い時間、例えば9時くらいに来るのと、12時近くなってから来るのとでは、確かにどちらも午前中ですが、全然違いますよね。せめて10時くらいだったらいいなと思ったりしますけど、なかなかそううまくはいかないものです。時間帯がある程度絞り込めていても「その中でいつだかわからない」ということですら、なんとなく落ち着かない感じがするのに、「神の国」が来るのが今日だか明日だかわからない。もしかしたら来年かも、いや10年後かも、100年後かもわからないとなれば、本当に落ち着かなくて、考えたくなくなってしまいます。例えば日本に限らず、災害というのはいつ起こるかわかりません。だからいつも警戒していようと思うと疲れてしまいます。釧路でも地震や津波に備えているとは言っても、いつも常時警戒し続けるというのは難しいでしょう。心配し過ぎることで、かえって疲れてしまうこともあります。でも、イエスさまはわたしたちにそんな非現実的な要求をしているのだろうか、と考えると、これはちょっと違うのかなと思うのです。

わたしたちは様々なことに準備をします。出かけるときには着替えて、メイクなどをしたりします。起こりうることを予想して、例えば折り畳みの傘は持っていこうかどうしようかと考えたりもします。だから、予想できていることに関しては、それなりに準備を整えて臨みます。でも、思うのです。神の国が来た時に、わたしたち、そんなに着飾ったり、起こることに対して準備をしておいたりする必要はあるのでしょうか。なんかそれは違う気がするのです。

神さまはわたしたちのことをよくご存じです。だから、取り繕ったりしても意味がないのです。そうではなく、今、この姿で、この自分で、神さまを迎えることを受け入れるようにするしかないのです。その時になったら、もう「ああ、こうしておけばよかった」と思っても、どうしようもありません。むしろ「今のわたしはこんなものです」と開き直ったほうがいいくらいだと思います。もし、今の自分が「なんか違うな」と思うのだったら、まずそのことに取り組んでみましょう。取り組んでみたんだよ、でいいのです。

わたしは、教会の皆さんはまじめで自分に厳しいなぁと思うことがよくあります。「クリスチャンとしてこうあらねばならない」ということが強いんだなぁと思うこともあります。理想の自分は確かにあります。でも、むしろ、「それができない、理想的じゃない自分」こそが、神の国で神さまと出会うことが必要な気がします。どうぞみなさん「今の自分」を大事にしてあげてください。そのままで神の国に向かって大丈夫です。むしろ教会は、そのことを教えるところなのだと思います。


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