狭い口をちょっとでも広く

2025年08月24日

ルカによる福音書 13章22~30節

 本日の福音書ではイエスが「救われる人は少ないのでしょうか」という問いかけに対して「狭い戸口から入るように努めなさい」と答える場面です。「入ろうとしても入れない人が多い」とイエスは最後に警告しています。

 イエスのこの答えは答えているようで答えていません。「少ないのですか」という問いに対して「多い」とか「少ない」という言い方だったら答えていると思いますが、「狭い戸口から入るように努めなさい」ですからね。もし、仮にこれが答えだとすると「狭い戸口から入る」ことが「救われる」ための条件のようになってしまいますね。でもそう考えていくと、教会が「誰でも招く」という姿勢をとっていることに対して矛盾してしまいます。だって、誰でも招いた上で、「狭い戸口から入る」という条件を課して「救い」を難しいものにすることになってしまいます。招いておいて「あなたはダメです」というのは正直かなりひどいのではないかと思うのです。

 一方で、ちょっと見方を変えてみると、実はここにいるわたしたちは「狭い戸口」をくぐりぬけているのです。それは「教会の扉」です。教会の扉はいつも「広く開けておく」ところでありながら、この戸口を通り抜ける人は多くありません。日本においてクリスチャンは人口の0.1%以下と言われています。礼拝に出席したり、コンサートなどの催しに来たり、関連施設で働いていたり、見学したりする人を加えても、それほど多くはないでしょう。実に狭い戸口ですよね。そう、わたしたちはすでに「狭い戸口」をくぐり抜けていると言えるのではないでしょうか。

 「入ろうとしても入れない人が多い」とイエスは言います。これはどういう意味なのでしょう。わたしたちが「できない」と言う時って、どんな時でしょう。単純に「やる気がない」とか「興味がない」こともありますし、「道具がない」「やり方がわからない」などの物理的な障壁があります。他にも「未知のものが怖い」というような心理的なものもあります。たくさんのパターンがありますが、もしそういった障壁が、すでに中にいるわたしたち由来のものであるなら、わたしたちが多くの人の躓きを与えてしまっていることになります。それはあまりうれしくないことですよね。

 一方で教会は、この「狭い戸口」を少しでも広くできるように、障壁を下げられるようにいろいろなことをしてきました。例えば「聖書」、実際に買うとなると選ぶのが大変なものですが、ギデオン協会などが配布をしてくださっています。また、昔は「礼拝堂は礼拝以外の用に使わない」という原則を強く持っていましたが、現在では礼拝堂を用いてコンサートや講演などを行う教会も増えました。他にもインターネットを用いて宣伝したり、礼拝などを配信したりすることで、少しでも「狭い入り口を広く」しようとする教会が増えてきているように思います。それでもまだまだ「教会の扉」は「狭い入り口」であることには変わりありません。わたしたちの教会も、もっと広げることを考えてもいいのだと思います。まぁ最初から「興味がない」場合はどうしようもないですけど。

 「狭い入り口をちょっとでも広く」「入れない人が少しでも少なくなるように」というのは、わたしたちの願いです。できるのなら、「あなたなんか知らない」と言わないようにしたいものです。その時、もしかしたら、わたしたちが「後になる」ことがあるかもしれません。でも、それは「先の人が後になる者もある」ということだと受け止めるようにいたしましょう。そして、後から来たたくさんの人たちと一緒に、天の国に向かうことができれば、これほどのよろこびはありません。少しでも入口を広げて、迎え入れることを大切にしていきたいものです。


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