「想い」を受け継ぐ
ヨハネによる福音書 12章20~33節
本日は大斎節第5主日。今日の福音書はヨハネからギリシア人がイエスに会いに来る場面が読まれました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」とイエスは語ります。
ここでイエスは明らかに「麦が種としてまかれる」ことと、「この世で自分の命を憎む」ことと、「私に仕える」ことを同じこととして言っています。裏を返せば、イエスに従おうと思うとき「自分の命を惜しむのではなく差し出すように」と招かれているのです。また「麦が種としてまかれる」ことは「後進のための礎となる」という意味が含まれていることを読み取ることができます。また、これらのことは「自分の命を憎む」と表現されていますが、今までのイエスの言葉から考えれば「憎む」というよりも「惜しまない」ということなのだと思います。「大切にし過ぎて踏み切れない」という事態を避けるように、ということなのでしょう。憎いからと、ポイ捨てするようなことではなく、「麦」が次の実りをもたらすように、次に続くようなあり方です。だからこそ「それを保って永遠の命に至る」と言っているのでしょう。
「麦」は地に蒔かれると、確かにたくさんの実を結びます。実際にどのくらいかと言うと、現代の小麦で大体15〜20倍だそうです。これは品種改良の結果なので、イエスさまの時代だと2〜3倍だったと思われます。ちなみに現代のお米は140倍だそうです。コメはすごいですね。話が少しそれましたが、「多くの実」と言うからにはもっと多いかと思っていたので意外です。少なくとも植物は基本的に植えれば増えるのですが、人間はそうはいきません。だから人間は「想い」を受け継ぎます。イエスが多くの弟子たちのところに蒔いた「想い」が「信仰」として、あるいは「想い」のままで受け継がれてきました。わたしたちの「信仰」も、わたしたち自身に芽生えたものですが、わたしたちが受け継いだものでもあります。教会は、「信仰」を、「想い」を受け継いできました。そして大切なのは、受け継がれたイエスの「想い」は、「信仰」という形で実を結んだものだけではないということです。
例えば今、この教会には保育園がありますが、「幼児教育」は「子どもたちを来させなさい」というイエスの「想い」を受け継ぐことによって「制度」として実を結んでいます。キリスト教保育が「キリスト者だけ」が利用したり働いたりするものではなく、多くの人に開かれているのもまた、イエスの「想い」を受け継いでいるからです。教育だけでなく、保険の仕組みや、福祉の制度などにもイエスの想いが結実したものがたくさんあります。そして人類はイエスの「想い」に連なる人々の「想い」も加えながら、さまざまな「種」を育ててきたのです。わたしたちは今、その最先端に立っています。
なるほど、教会は今、衰退しているように見えます。でも本当にそうでしょうか。わたしたちに必要なのは「衰退しているからなんとかしなきゃ」ということではなく、これまで受け継いできた「想い」が残すことだと思います。「信仰」という形で実を結ぶかは分かりませんが、別の形で実を結ぶことも考えて、イエスの根本的な「想い」を受け継いで伝えていくことを大切にしましょう。そうするともしかしたらいつの日か、びっくりするくらいたくさんの「信仰の実」が結ばれるかもしれません。そのことを信じて、イエスの「想い」を聖書から読み取りながら、わたしたちの「想い」も加えながら、受け継いだものを伝えていきましょう。