すれ違いの時代に

2024年08月11日

ヨハネによる福音書 6章37~51節

 本日の福音書は先週に続き「イエスは命のパン」とタイトルがつけられているところです。イエスは群衆に対して「わたし(イエス)を信じること」、そして「イエスこそが命のパンである」ことを告げます。しかし群衆は「あれは大工のイエスではないか」「わたしたちがよく知っている人ではないか」という態度を崩そうとしませんでした。

 ユダヤ人たちはイエスの言葉を聞いて「つぶやき」合います。「つぶやく」というのは、日本語のニュアンスだと小さい声でしゃべることで、独り言のような感じです。特に感情は伴っていません。しかし、聖書で「つぶやく」という言葉が出てきたら、つぶやいた人は何かしらの「不満」がある合図です。ユダヤ人たちはイエスの言葉に不満があるのです。さて、それではどういうところが不満なのでしょう。まず1つは「父も母も知っている。本人も幼いころから知っている」ということです。もちろん自分たちの間で育ったのですから、確かに知っているのです。しかし一方で、よく知っているからこそイエスが変わったことを認められない、信じられないということはあるでしょう。悲しいことですが、変化について行けないということはよくあるのです。そして次の1つは「天から降ってきた」という言葉です。書かれている通り、彼らはイエスがマリアから生まれたことを知っています。だからこそこの言葉がよくわかりません。「天から降ってきた」という言葉が示しているのは、実際に「今の姿で天から降りてくる」のではなく「マリアのお腹に降りてきた」ことなので、ここでユダヤ人たちとのイメージのずれが生じています。同じ言葉を使っていても、言葉の示しているものが違えば、思いもすれ違ってしまいます。イエスとユダヤ人たちはここでもすれ違っているのです。

 「よく知っている」と思うことは「すれ違い」を産むことがあります。わたしたちは実際に、教会に通っていても多分それぞれ使っている言葉の意味が微妙に違います。例えば同じ「神さま」とか「礼拝」という言葉を使っていても、重きを置いている部分が違うのです。「教会に行く」と言っても、それぞれ「何をするのか」ということは違いますし、その思いも微妙に違います。ところが結構みなさん「同じ」だと思っている人が多いような気がします。そしてその言葉を「よく知っている」と思うからすれ違うのです。

 教区で、教会で「宣教」を考えることがあります。でも「宣教」という言葉が含む範囲はとても大きくて、簡単に「こうすれば大丈夫」だと言い切ることはできません。かつて教会がにぎやかだった時代とは、今は変わってしまっています。それに教会ごとの状況の違いも無視できません。でもそういった違いを「無視して」考えようとすることがとても多いのです。そして、そんな中で教会は、教区はまとまっていかなくてはなりません。だからこそ、それぞれの「違い」をお互いによく知ることが大切です。知ることによって、共にあることができるのです。ところが多くの人が「すでによく知っている」と思って、すれ違ってしまうのです。わたしたちは「よく知っている」と思った時にこそ「よく知らない」のです。だから「違い」に目を留めること、「変化」に目を留めることが必要なのです。そして、教会の中と外の「違い」もかつてとは違います。教会の外の人の声に耳を傾け「何が違っているのだろう」と考えてみることは大切です。わたしたちがその違いを乗り越えていくことで、乗り越えた言葉を発信していくことで、神さまのことが初めて社会に伝わるのです。わたしたちは「今までと違う」「変わってしまった」と「つぶやく」のではなく、変化を感じ取り、違いを感じ取り、そしてそれを知り、飛び越えていくことが必要なのです。


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