はっきりと祈る
マルコによる福音書 4章35~41節
本日の福音書は「突風を鎮めるイエス」。向こう岸にわたるために湖に漕ぎ出すイエス一行を突風が襲います。イエスは艫の方で寝ていますが、弟子たちが「わたしたちがおぼれ死んでも、かまわないのですか」と訴えると起き上がって「黙れ、沈まれ」と風に命じて沈めます。そこで弟子たちは驚きを示し「一体この方はどなたなのだろう」と互いに言い合います。イエスが「神の言」として命じると、イエスの言葉がすべて現実となる、イエスのことを端的に示したエピソードです。
イエスは命じるとき、いつもストレートにものを言います。「命じ」ているので当たり前だと言えばそうなのですが、わたしたちは普段、あまりストレートにものをいうことはありません。人と人との関係の中で、様々な言葉遣いを駆使しながらコミュニケーションをとっています。敬語や婉曲表現、定型句や熟語、古い言い回しや果てはスラングなど、一つのことを言うだけでもたくさんの表現があります。風に命じることを例にとれば「黙れ、沈まれ」「静かにしていただけませんか」「あなたは騒ぐことしかできないのですか」「落ち着いて」などなどぱっと思いつくだけでいくつもの表現方法があります。弟子たちの言い方もそうですよね。「先生、わたしたちがおぼれ死んでも、かまわないのですか」というのは、要するに「先生、風を鎮めてください」とか「先生、なんとかしてください」ということです。直接的にいうのなら「風を静かにさせろよ」という表現になるでしょうか。弟子たちは人のルールで話しているので、イエスに向かってあまり直接的に願うことはありません。「恐れている」のかもしれませんね。
イエスは「なぜ怖がるのか、まだ信仰がないのか」と弟子たちに向かって言います。普通に考えればこれは「風を怖がっている」ことなのだと思います。でも、表現の仕方に着目するともしかしたら、イエスは弟子たちに向かって「もっと直接的に願いなさい」と言っているのかもしれません。考えてみればイエスは、癒してほしい人に、明らかに症状が見えていたとしても「何をしてほしいのか」と問いかけます。わかっているはずなのに「見えるようになりたいのです」というような、直接的な言葉で願いを言うように促します。神さまに祈るとき、具体的に、直接的に口に出すことは大切です。「神の言」は現実になります。非常に具体的なものです。だからこそ、わたしたちも願いを具体的に、直接的に表現することも必要なのです。
確かにこれは人間の世界でもそうかもしれません。表現を工夫するあまり、実際に言いたいことが見えてこないことはよくあります。こうかな、と思って行動すると、全然違うことだったということがよくあります。もちろん「直接言えないようなお願い」もないことはないのでそれを考え出すとややこしくなりますが、ある程度の社交辞令はともかく、ややこしいお願いなら具体的に、直接的に言ったほうが自分も周りも楽だということがよくあります。
「祈り」は「神さまと対話」することです。神さまと話して、自分の望みを明らかにすることとも言えます。なぜか神さまに祈るときに、自分しかいないのに恥ずかしがったり、遠慮したりして、直接はっきり言えないことがあります。それとは逆に、祈りながら、抽象的な言葉がだんだんと具体的になっていくこともあります。神さまに祈るとき、大切なのは怖がらず、どんなことでも、どんな心の望みでも、はっきりと言葉にすることだと思います。神さまはわたしたちのところに聖霊を遣わし、わたしたちの中にいる聖霊がとりなしてもくれますが、その力も借りて、具体的に、はっきりと望みを口にしてみましょう。そんな祈りを続けることが、信仰を深める一歩なのです。