イエスに従う
マルコによる福音書 1章14~20節
本日の福音書はイエスが4人の漁師を弟子にする場面。イエスは荒れ野から戻った後、最初に弟子たちを勧誘します。ガリラヤ湖のほとりで網を繕うペトロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネの4人に「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」と声をかけ、彼らはイエスに従います。
「人間をとる漁師」と聞いて、どんなことを想像しますか。漁のやり方もいろいろですが投網で手繰り寄せるだけではなく、一本釣りだってありますし、銛で突くような漁の仕方もあります。わたしたちがこの言葉を聞くとき、自分の知っている漁によっても、考えることが違ってしまいそうですね。ちなみにこの時代のガリラヤ湖の漁だと、湖に網を打って、その範囲に入った魚を引き上げるやり方です。魚群探知機で探ったりできるわけじゃないので、あまりきれいではない湖で経験に従って網を投げるわけですが、全然魚がかからない日も珍しくなかったようです。
でも考えてみれば、これはおかしな話です。イエスはまだ何者でもありません。癒しや悪霊追放などの奇跡を起こしていません。生業にしていた大工では仕事があったでしょうが、その仕事もやめてしまった無職の人です。にもかかわらず「私についてきなさい」とイエスはペトロたちに告げたのです。そしてその話を聞いたペトロたちも、自分の生業である漁師の網を船をそこに残してイエスに従ったのです。普通ついていきませんよね。ありえないことが2つ続いているのが、この出来事なのです。そしてペトロたちはイエスの弟子たちの中心となり、迷いながらも最後まで従っていくのです。
この出来事はよく、牧師や指導者たちへの召命の物語として語られますが、それだけではありません。ペトロたちは「漁師」でした。この時代で言えばザ・庶民です。そしてイエスもまだ「救い主」としての力を発揮してはいません。何者でもない無職の中年でした。ペトロたちは指導者になりましたが、イエスに誘われた人は使徒たちだけではなく、今では名を知られていない弟子たちもたくさんいました。そのすべての人が、イエスに従って、それぞれの役割を全うしたのです。イエスは誰のところにでも「私に従いなさい」と声をかけてくる可能性のある方です。誰のところにでも、もちろんあなたのところにも来る可能性があります。そこでわたしたちは、今、わたしたちの時代のために果たす役割のために招かれるのです。そして、もう一つ大事なのはイエスは「見知らぬ人」「名もなき人」として来るということです。立派な人から勧誘された、のではなく、誰かわからない人に声をかけられることかもしれないということです。それはもしかしたら、自分がさげすんでいた人々からかもしれないのです。最後に、従った後に、わたしたちはそれが「神さまの御業であった」こと「神さまからの招き(召命)」であったことを知るのです。残念ですが、先に知ることはできず、後から振り返って「ああ確かにそうだったかも」というものです。自分がわけもわからず進んでいく経験からしか知ることができないのです。
イエスはいつもわたしたちに呼びかけ続けています。神の呼びかけは、いつも小さく、時に思わぬ形で現れます。そしてその呼びかけに応える道は簡単ではありません。イエスの道は十字架に続きます。使徒たちの中で天寿を全うしたのはヨハネだけだったといわれています。それでも苦難がなかったわけではありません。実際イエスに従わなければ、今の生業のままにいた方が平安だったかもしれません。イエスに従うということは、平穏無事な生活を意味するのではなく、労苦や闘争、苦難の道に足を踏み入れるということです。でも、そこに同伴してくれるイエスによって、わたしたちはその道を歩むことができるのです。