世が与えるように
ヨハネによる福音書 14章23~29節
本日は復活節第6主日。福音書はヨハネから「聖霊を与える約束」の後半部分です。聖霊がすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる、とイエスは言います。そして、イエスは世を去っても「平和」を残していくと、さらに「世が与えるように与えるのではない」というのです。ヨハネによる福音書のイエスの発言は、全体的に簡単な言葉を使っているようでありながら、どうも何を言っているのかわかりづらい感じがします。今回の箇所もそんな感じです。
イエスは「平和」をわたしたちに残しています。でもその「平和」というのは「世」つまり、この世的な平和のことではないということです。つまり、わたしたちが単純に想像する「戦争がない状態」ではないのだということでしょう。じゃあ、イエスの言っている「平和」とはどのようなことなのでしょう。一つは「イエスの残したもの」ということです。もちろんイエスの残したものはたくさんあるのですが、わたしたちにとって大切なのは、先週もお話した「新しい戒め」ではないでしょうか。「互いに愛し合いなさい」ということです。どうしてもわたしたちは「互いに」という範囲を、狭い範囲に限定してしまいがちですが、そこを「少し大きく」考えるということ、特に「目の前で出会う人」に拡大していくということです。政治上の利害関係のことは、なかなか快刀乱麻を断つように解決することは難しいかもしれないけれども、わたしたちの周囲の関係を「大事にする」方向でもたらされる「平和」はあるのだと思っています。
わたしたちは「何が正しいのか」ということを考え出して迷ってしまうことがよくあります。迷ってしまうとなかなか手も足も動かなくなってしまいます。けれどもわたしたちにはイエスさまがいるのです。神さまがいるのです。イエスが「世が与えるように与えるのではない」と言っているのであれば、理解者が少なくても当たり前です。それでも「弁護者である聖霊」が、わたしたちにいつも寄り添ってくれ、イエスが話していたことを思い出させてくれるようになるので、なんとか行うことができるのだと思います。それは確かに怖いことでもあるでしょう。「心を騒がせるな、おびえるな」とイエスも言っています。それでもイエスという絶対的な導き手のいないこの世界で、聖霊がそばにいるからこそ、わたしたちにできることはあるはずです。そして何より、わたしたちは正しいことを選び続けることができない生き物です。なるべく正しく選び続けたいと思う気持ちはわかりますが、それを怖がって何もしないほうが、かえって物事が悪化してしまうということはよくあるのです。
そもそも「○○教徒だから」という理由で、特別なことをしなければならないというのは少し考え方がおかしいような気がするのです。「キリスト教は日常を大事にするけど仏教や神道はそうではない」と考えてしまうのなら、それは間違っています。そうではなく、どんな宗教の人でも、思想信条の人でも、日々の生活が人間同士の関りでできている以上、人との関係から逃れることはできません。誰もが「周囲の人」との関係なしで生きていくことはできないので、その「周囲の人との関係」を「大事にする」という方向性で行うことが、様々な「平和」の第一歩であるのだと思います。
周囲の人を「大事にする」ところから始めるというのは、「世が与える」やり方に比べて迂遠で、回りくどく、時間のかかることです。下手したらコストもかかります。効果も見えづらいので、モチベーションを保つのも難しかったりします。しかしそれでも、わたしたちにはイエスの言葉があり、聖霊のサポートがあります。すぐに目に見える効果はないかもしれないけど、自分たちの周りから地道にやることが、わたしたちのできることのように思います。