何度でも生まれる

2024年05月26日

ヨハネによる福音書 3章1~16節

 本日は三位一体主日。先週の聖霊降臨日で父なる神、子なるイエス、聖霊の三つの位格がそろったことの記念日となります。福音書はヨハネから「ニコデモとの問答」が読まれます。夜イエスのもとを訪ねたニコデモが「年を取ったものがどうして生まれることができましょう」と問うとイエスは「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」と答えるのです。

「水と霊によってふたたび生まれる」というイエスの言葉、わたしたちはピンときます。なるほどこれは「洗礼」のことを指しているのでしょう。洗礼という言葉の原義は「溺死する」であり、最初の洗礼は、今の「摘礼」という頭に少し水をかける形ではなく「浸礼」という水の中に体を鎮める形で行われていたからです。水の中に沈められることによって古い自分が一度死んで、引き上げられることによって新しい命によみがえる、そして手を置かれることによって自分の中に入ってきた聖霊が強められるのです。こうやって、わたしたちは「霊と水によって新たに生まれた者」となったのです。そして、神の国に入るため、いやむしろ、この世界を神の国に変えていくために働くことになっているのです。

「霊と水によって新たに生まれた者」がそのまままっすぐ、道をそれずに生きていくことができれば、洗礼を授けさえすれば世界中が生まれ変わっていくことでしょう。ところがそんなわけはありません。「新たに生まれた」とは言ってもわたしたちは弱い人間であり、それこそ何度でも間違えたり道をそれたりしてしまいます。ぶっちゃけた話になりますが、洗礼を受けるだけで「ちゃんとした人」になれるなら苦労はしないし、それこそキリスト教の正しさは疑うべくもないのですが、そんなことはないわけです。教会だって「洗礼を受けた素晴らしい人たち」の集まりのように周囲には認識されていますが、そんなわけはなく、むしろ傷つき、うまくいかなくて悩む人々の集まりなのです。そんな現状の中では、「新たに生まれる」なんて何の意味もない、と考えてしまうこともできます。そうやって教会を離れていった人たちもたくさんいます。

わたしは「新たに生まれる」ことの本来の意味は、「正しい人になる」ことではなく、「戻ってくる場所を明確にすること」だと思っています。人間は、もちろん何の目的もなくただ生きることもできますが、明確な大きな目標があるときのほうが生きる方向性が定まるものだと思います。「新たに生まれる」ことによって、「神のほうを向いて生きる」「神の国のために働く」という大きな目標が明確になり、その手本として「キリストに倣って生きる」ことが示されたことで、生きやすくなると思うのです。たしかにわたしたちは弱い人間ですが、道をそれたとしても何度でもこの目的に戻ってくることができます。間違えたとしても、大切なことを思い出して「何度でも生まれなおす」ことができます。もちろん、間違えた時に起こしたことが消えるわけではありませんし、同じ場所にいられないかもしれません。それでも神さまはいつも共にいて、わたしたちが戻ってくる手助けをしてくれると同時に戻ってきたわたしたちを受け入れてくれるのです。

三位一体主日は、父・子・聖霊の三つの位格を持つ神を記念する日です。正直三位一体についてはっきりよくわかっているわけではありません。でも人間もそうですが、神さまも教会もいろいろな側面を持っていたほうが受け入れられることは多い、と漠然と思います。わたしたちはいろいろなところが欠けていますが、その欠けに応じて神さまは現す姿を変えて、わたしたちをいつも導いてくれるのです。「神さまのほうを向いて」生きることを大切に、三位一体の神を信じて進みましょう。


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