偉いってなんだ
マルコによる福音書 9章30~37節
本日の福音書はマルコから、イエスが再び人の子=自分の今後について語る場面と、「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちに対してイエスが「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と諭す場面です。
子どもってかわいいですよね。子どもたちにイエスさまのお話をすると、真剣に聞いてくれて、お祈りも一生懸命してくれるようになります。そして結構そのお話を覚えていて、家でしたりもしているようなんですよね。ああ「子どものように」というのはこういうことなんだろうなぁと感じます。逆に別の意味でも素直です。変だなと思ったら「イエスさまそれ変じゃないの」と言ってきますからね。素直なのはいいことばかりでもない、と思うこともあります。
保育園で日々子どもを見ていると、現代の子どもってちゃんとご飯を食べているし、それなりに身なりも整っているなぁと感じます。子ども服も可愛いものが増えましたよね。また、多分ですが少子化によって子どもにお金をかけることができるようになっているのだろうとも思います。(一般論で、個々の事例は無視しています)ところが聖書の時代、子どもたちは今のように集まって保育されているわけではなく、小さい子どもは亡くなることも多かったため、あまり着飾ったり、身ぎれいにしたりされるわけではありませんでした。当然ですがイエスが抱き上げた子どもたちも、今のような身ぎれいで手入れの行き届いた子どもではありません。むしろ子どもたちは「汚いもの」として扱われていたのです。だからこそ余計「子どものように」という言葉には重みがあります。ただ「子どものように素直」というだけではなく「どんな姿であっても」ということです。つまりイエスの言葉は「こんな小汚い子どもを受け入れられますか」という問いかけでもあるのです。
イエスは「出発点」に立ち返るように、繰り返し問いかけています。「律法」の出発点は「神が人を生かす」ためのものだったことに戻り、「信仰」の出発点は「神と人のために働く」だったことに戻り、そして「偉い」ということについて語り掛けます。そもそも「偉い」ってなんでしょう。地位でしょうか、お金でしょうか、権力でしょうか。それとも勉強ができることでしょうか、運動ができることでしょうか。いろいろな観点がありますよね。少なくとも弟子たちの中で話していたのは多分、自分たちの中での権力ということなのだと思うのですが、イエスはそこに対して「偉いってなんだ」という問いを突き付けたのです。「出発点」について考えていくと、こうやって自分が思ってもみないところから「問い」が突き付けられることがあります。
では「偉い」ってなんでしょう。イエスは「人に仕えること」そして「子どもを受け入れること」を示しました。「偉い」というのは、普通に考えると権力があり、人を使う人のことです。しかし「出発点」に戻って考えてみると、「偉く」なる最初の時、おそらくその人は「仕える」ことを重視したはずです。人々のために働く人にこそ、人はついていきたくなるものです。イエスも「わたしに従いなさい」とただ言っているだけでは誰もついてこなかったでしょう。しかしイエスが「神の子」として、人に仕え、人を癒やし、友の無い人と友となる様子を見て、ますますついて行きたくなり、こうして多くの人と共に歩むことになりました。ですから「仕える」ということ、この時代の小さな子どものように、遠ざけられている人たちを受け入れることが大切だとイエスは伝えています。様々なものごとの「出発点」に立ち返って、イエスに倣って生きる道を大切にしていきたいと願っています。