恐れを越えて紡ぐ
マルコによる福音書 16章1~8節
イースターおめでとうございます。今日の福音書はマルコから、イエスの復活が読まれます。そうはいっても「墓が空だった」という描写があって、見に行った婦人たちが「恐れて」みんな逃げ去ってしまって終わります。実際に「復活のイエスに会った」という描写は一切無いのが、マルコによる福音書の復活の証言です。
マルコによる福音書は、聖書学によれば一番古い福音書です。イエスの死後30年が経過したくらいに書かれているので、まだ実際にイエスに会ったことのある人たちが生きている状況の中で書かれているのです。ということは、この証言が「イエスの復活」の一番古い形だった、と考えられます。「○○があった」というのならば、「証拠」という形で提示しやすいのですが、「○○がなかった」という場合は「証明」が難しいですよね。見せようがないわけです。だからこそ、のちに多くの証言が集められることになったのでしょう。
婦人たちは「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と記されています。「白い衣を着た若者」=天の使いに会って、説明を聞いてはいますが、恐ろしかったのです。この「恐れ」が、「イエスが復活した」という「喜び」に変わるまでには、しばしの時と「復活の主との出会い」が必要だったのです。だからこそ彼女たちは、若者に告げられた通りペトロたちに伝え、ガリラヤに向かう必要がありました。でも、その部分はこの福音書には記されていません。しかしもし、本当に「誰にも何も言わなかった」のなら、イエスの出来事はこれで終わり、歴史の中に埋もれてしまったに違いありません。婦人たちが気を取り直してペトロたちに告げたからこそ、彼らが復活の主に出会い、そして福音書が著され、わたしたちのところにまでつながっています。婦人たちが「恐ろしさ」を越えたことで、わたしたちのところにまでイエスの出来事が伝えられることになったのです。
「恐ろしさ」「恐れ」は、わたしたちがよく抱く感情です。というより、人間は「恐れ」の感情と共に成長するものであり、また「恐れ」に向き合って越えていくことで成長するものです。赤ちゃんは、すべてのことがわからず「怖い」と思い、「泣く」ことによって、助けを得て、成長していきます。幼児は、初めてのことを「怖い」と思いながらも、「やってみる」ことで成長します。大人もまた、自分に「怖い」という感情があることを知りながら、向き合うことで人と交わり、共に生きていきます。そもそも、他人と交わるのは怖いことです。わたしはここで偉そうにしゃべってはいますが、いつも「恐れ」を抱いています。実は結構な小心者です。でも、自信たっぷりに見えるように振舞っているつもりです。だってそうしないと役割を果たせない気がしているからです。イエスもまた、「恐れ」を抱きながら自分の道を歩み、「恐れ」ながらも十字架にかかって苦しみ、復活に至りました。わたしたちもイエスに近づくことは「怖い」と思いながらも、それを越えて信仰に至ったはずです。そして、信仰を得た後は、この信仰を誰かに伝えることで、何か悪いことが起こらないだろうかと「恐れ」と抱くこともあるのではないでしょうか。
このマルコによる福音書は「未完」のような形で終わっています。でも、だからこそ、その続きには、それぞれの物語が展開していくわけです。その余白があるのです。わたしたちにとっての「ガリラヤ」へ恐れを越えつつ向かうことによってわたしたちはイエスに出会い、今の自分になっています。日々の生活でも「恐れ」を越えつつ、イエスを伝え、それぞれの物語を紡いでいきましょう。