死は終わりではない

2023年03月26日

ヨハネによる福音書 11章17~44節

 大斎節も第5主日に入り、本日の福音書はイエスがラザロをよみがえらせる話。亡くなったラザロのところに4日後に来たイエスは「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。」と祈り「ラザロ、出てきなさい」と叫びます。するとラザロがよみがえり、墓から出てくるのです。

 イエスがラザロのところに着いたとき、ラザロの姉妹であるマルタとマリアは口々に「主よ、もしここにいてくださったなら」と言います。そして泣いているのですが、ここでイエスは「憤り」を覚えたと聖書には記されています。人にとって「死」は終わりであり、悲しみでもありますから、ここで泣いているのは自然なことです。泣いている人に対して「共感」するのではなく「憤る」というのは、わたしたちの知るイエスとは少し離れている気がしますよね。でも、それには理由があります。マルタもマリアも、周囲にいるユダヤ人たちにとっても、ラザロの「死」は「別れ」であり「終わり」です。しかし、イエスにとっては「死」は終わりではなかったのです。では、これはどういうことなのでしょうか。

 基本的に「死んだ者」は誰であれ、再び生き返ることはありません。もちろん、蘇生するケースがままあることがあることは承知していますが、たとえ蘇生したとしても最後は必ず死にます。ずっと生き続ける生き物はいません。わたしたちはイエスがこれから「復活」することを知っていますが、それは「新しい命」への復活です。ラザロの場合とは少し違います。ラザロはただ生き返っただけであって、彼が「死ななくなる」ということではないのです。彼のその後については聖書に書かれていません。少なくともわたしたちの知っている範囲では、彼が生き続けたということはないようです。まぁ「隠されたところで生き続けている」というような話になれば分かりませんけれども、多分彼が生き続けているのなら、教会は「復活の証明」として彼を旗印にするんじゃないかと思いますので、そんなことはないのだと思います。じゃあイエスの復活はどう考えるのか、イエスは死からよみがえったではないか、と言われるかもしれません。でもただ生き返ることと復活とは違います。「生き返る」というのは「死」から帰ってくること、でも結局もう一度死ぬことになります。生き物は死から逃れることはできないからです。ところが「復活」は、ただ「生き返る」こととは違います。「復活」とは「新しい命」へのよみがえりです。今までの命とは違うので、今度は永遠に生き続けることになるのです。イエスにとって「死」は終わりではなく、「永遠の命」へ向かう通過点にすぎません。わたしたち人間にとって「死」は「別れ」でもあり「終わり」でもある。だから悲しくなるし、涙がこぼれるものです。マルタもマリアも「死」が「終わり」であり「別れ」であると思っているから泣いていたのです。イエスは何度も「新しい命」「永遠の命」について語っていましたが、マルタもマリアもまるで理解していなかったのです。

 イエスはラザロを生き返らせることにしましたが、それが「自分の十字架」につながる道であることをよく知っていました。ラザロの「死」は終わりではなく、「神の栄光」を人々に示すためのものとなったのです。この奇跡によって多くの人がイエスを信じるようになりました。でも、イエスが様々な奇跡を行えば行うほど、イエスは一歩ずつ十字架に近づいていきます。しかしイエスは決して止まることなく、「神さまはいる」ということを証明し続けました。そしてその神は、人を生き返らすほど人に関心があり、人と共にいる神様であることを示してくれました。「死は終わりではなく、新しい命への扉」であることも示してくれたのです。そんなイエスと共に、これからも生きて、そして新しい復活の命に与れるよう、日々を過ごしていきたいと思います。

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