誰かが湖をやってくる

2024年07月28日

マルコによる福音書 6章45~52節

 本日の福音書は「湖の上を歩くイエス」。イエスより先にベトサイダへ行くために湖に漕ぎ出した弟子たちですが、逆風のために漕ぎ悩みます。そこへイエスが湖の上を歩いてやってきて通り過ぎようとしたので、弟子たちは驚きます。そこでイエスが船に乗り込むと嵐は静まり、弟子たちはさらに驚くのです。

イエスは「いつもわたしたちと一緒に歩いてくれる」と、わたしたちは思っています。わたしも「いつもわたしたちと一緒にいてください」とお祈りすることもありますし、みなさんも困ったときはそばにいてくれるのだと思っているのではないでしょうか。そしてイエスさまもわたしたちを離れない、とどこかで思っているのではないでしょうか。

しかしよくよく聖書を読んでみると、イエスは必ずしもそうではありません。五千人の給食の後、イエスは「弟子たちを強いて船に乗せ」とある通り、一緒にいたがる弟子たちを先に行かせます。考えてみれば、五千人の給食の前にも「あなた方だけで寂しいところで休みなさい」と弟子たちを離していたのですね。そしてイエス自身は一人で山に行ったり祈ったりしているのです。イエスさまは思ったほどいつも弟子たちと一緒にいたわけではないようです。しかもイエスは湖の上で弟子たちの横を「通り過ぎて」行こうとされます。いきなり乗り込むのではなく、通り過ぎて先に行ってしまおうとするのです。ますます「一緒にいてくれる」という姿から遠ざかっていきますね。

 保育園で、毎日子どもたちの様子を見ることができることは大きな喜びです。小さい子どもは、基本的に保護者の監督下にあります。保護者は子どもを見守り、成長を促します。躓きそうなとき、手を貸してあげることもあるし、躓きそうなものを取り除いたりもします。また注意することを教えたりして、子どもは徐々に成長し、自分でも学ぶことができるようになります。そしてやがて大人になり、自分がまた、誰かを教える立場になっていくのです。保育者はその過程で子供たちの成長を促し、手を出すときもあれば見守るときもある。成功体験を積ませるだけでなく、失敗の味も知ってもらう、大切な役割を担っています。様々なことを体験してもらいながら、保護者と一緒に子どもを育てていくのです。そして何より大切なのは、ただ躓く要因を取り除くのではなく、様子を見ながら、その失敗を乗り越えていけるかも見ていることです。一度も躓かずに大きくなると、大人になってから失敗したときに一気に崩れてしまうこともあるようです。最近はそんな若い人が増えているのかな、とも感じることもあります。

 イエスのことを「養育者」とパウロは表現しています。考えてみればイエスは、いつも弟子たちを突き放しているようでもありながら、やさしく見守っているようでもあります。時々弟子たちだけで行動させることでその成長を促していると考えればどうでしょうか。確かに弟子たちは、時に褒められ、時に叱られながら、若干叱られるほうが多い気もしますが、徐々にイエスの後を追いながら成長していくのです。もちろん時には一緒に歩みつつ、時に背中を見せながら追いついてくるのを待つ、そんなイエスさまの姿も感じられます。考えてみれば、子どもの成長を見るときに、ただ子ども扱いして何でもしてあげれば、子どもの成長は鈍くなるでしょう。自分で考えて自分でやってみたとき、成功も失敗も本人の糧となり、大きく成長するでしょう。神さまはイエスさまを、ただ人間を甘やかす存在として送ったのではなく、成長を促すための存在として送ってきたのではないでしょうか。弟子たちが右往左往する姿も、そう考えれば大丈夫。わたしたちも右往左往していきましょう。


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