野放図に伸びても
ヨハネによる福音書 15章1~8節
今日の福音書も引き続きイエスの「告別説教」と言われる場面。イエスが自分のことを「わたしはぶどうの木」と言い、「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」と言います。また、父なる神が農夫としてその世話をするのだ、というのです。
ぶどうは古代から栽培されてきた果物でした。栄養価も高く、干して保存したり、ワインにしたりと様々な用途に使用されてきました。特に中近東が原産で、盛んに栽培がおこなわれていたので、イエスたちにとってはとても身近な植物だったことでしょう。また、種から増やすのではなく、枝を地面にさしておくだけで根を出すので簡単に増やすことができることから、紀元前3000年ごろには栽培が始まっていたようです。(19世紀にぶどうの根に寄生する虫の大発生があったため、現在は台木を利用した接ぎ木によって増やされています)
ぶどうの木は、ただ伸ばすだけなら割と簡単に伸びます。木の向くままにどんどん弦を伸ばさせればあっという間に野放図に大きくなることができます。何本も何本も弦を伸ばしてどんどん大きくなるのです。北見の教会の壁に20年近く前に植えたぶどうの木が弦を這わせていますが、春先にきちんと肥料をやっておくだけで、勝手に伸びていくのです。しかし伸ばすだけではなく、きちんと実を付けさせようとするとちょっと大変です。枝が多すぎると栄養がいきわたらず、花が咲かなかったり、実に栄養がきちんと行き渡らなかったりするのですね。だから枝を整理してこれ以上伸びないように止めたり、花が多く咲いているようなら摘んだり、実がなり始めたら傷ついたりしないように袋をかけたりと、様々な作業が待っています。もちろん、これらの作業は完全にしなくても実は成るときは成るので、ある意味世話が簡単だともいえます。極端なことを言えば、肥料をきちんと入れて、栄養がいきわたっているのなら、どんどん伸ばしても大丈夫なのでしょう。ワイン用のブドウなんかは、実に栄養を凝縮させるために、1本の木に成らせるのは1つか2つの房までにしたり、水やりはほとんどせずに根を深くまで伸ばさせるようにしたりと、極端なまでに世話をします。
さて、イエスというぶどうの木はどうでしょうか。父なる神が世話をしてくれるのであれば、木の栄養が絶えるということはないはずです。ですからイエスはある意味野放図に枝を伸ばすことのできるぶどうの木です。いくらでも、どんなに枝分かれしても伸ばすことができます。その幹につながっているわたしたちも安心してどんどん自分を枝として伸ばしていくことができます。しかし一方で、伸びる方向には気を付けなくてはいけません。普通植物は日のさすほうに向けて伸びるのですが、どうしても明るいほうではなくて、妙な方向に延びる枝もあるのです。それでも幹につながっているうちは良いのでしょうが、違う方向に延びてしまえば切れてしまいやすくなってしまいますから。
時に「わたしはこの幹から切れてしまっていないだろうか」と気になるかもしれません。イエスは「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなた方のうちにとどまっているなら、望むものを何でも願いなさい」とわたしたちに呼び掛けてくれています。それが「実を結ぶ」ことにつながるのなら、神はわたしたちの願いをかなえてくださるでしょう。そして、わたしたちが「イエスの愛」を知って、そこにとどまることができるのなら、わたしたちがイエスという幹から絶たれてしまうことはないでしょう。イエスの愛にとどまる、それはわたしたちがイエスの言葉を実践し続けることです。「互いに愛し合いなさい」わたしたちが、お互いに大切にしあうことで、イエスという幹につながり、栄養を与えられながら豊かな実を結ぶ時を願うことができるのです。