偉いってなんだ
本日の福音書はマルコから、イエスが再び人の子=自分の今後について語る場面と、「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちに対してイエスが「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と諭す場面です。
本日の福音書はマルコから、イエスが再び人の子=自分の今後について語る場面と、「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちに対してイエスが「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と諭す場面です。
本日の福音書はマルコから、イエスが自分のことについて弟子たちと話す場面です。周りの人がどのようにイエスのことを言っているのかを弟子たちに聞くと「洗礼者ヨハネ」とか「エリヤ」とか「預言者の一人だ」などとの答えが返ってきます。そこでイエスがペトロに聞くとペトロは「あなたはメシアです」と告白するのです。そう答える一方で、ペトロはイエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日後に復活する」と言い出した時に、脇へ連れ出してイエスを諫めようとして「退け、サタン」と叱られてしまいます。最後にイエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と人々に教えるのです。
本日の福音書はマルコから、イエスが目と口が不自由な人を癒やす場面。ガリラヤ湖のほとりで、人々によって連れてこられた耳と口が不自由な人に「エッファタ(開け)」と言うと、耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになりました。イエスは「このことを誰にも話してはいけない」と口止めしますが、かえって人々はイエスの奇跡を言い広めます。
本日の福音書はマルコに戻り、イエスとファリサイ派の人々との「汚れ」に対する論争が描かれています。手を清めずに食事をするイエスの弟子たちに対して、ファリサイ派の人々がかみつくのですが、それに対してイエスが「人の外から入るものが人を汚すのではなく、人から出るものが人を汚すのだ」と言い放ちます。ここで注意しておかなくてはいけないのは、別にイエスやファリサイ派の人々は「衛生」の話をしているのではないということです。「衛生」ではなく「穢れ」の話をしているのです。漢字だけを見ると「汚れ(けがれ)」と「汚れ(よごれ)」を一瞬混同してしまいそうですが、そこに気をつけて読んでいきましょう。
本日の福音書は先週までのイエスの話の後の弟子たちの反応からスタートします。なんとイエスの「刺激的な言葉」によって多くの弟子たちが離れ去ったと記されているのです。しかし十二人の使徒たちは「あなたがたも去ろうとするのか」というイエスの言葉に対して「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょう」と言って残ります。
本日の福音書は先週に続き「イエスは命のパン」とタイトルがつけられているところです。イエスが「わたしの肉を食し、血を飲むことで永遠の命を得る」と言ったことで、ユダヤ人たちも議論し始めます。
本日の福音書は先週に続き「イエスは命のパン」とタイトルがつけられているところです。イエスは群衆に対して「わたし(イエス)を信じること」、そして「イエスこそが命のパンである」ことを告げます。しかし群衆は「あれは大工のイエスではないか」「わたしたちがよく知っている人ではないか」という態度を崩そうとしませんでした。
本日の福音書はヨハネに移り、「イエスは命のパン」とタイトルがつけられているところに進みます。五千人の給食が起こったのち、群衆がイエスを探してやってきます。その群衆にイエスは「あなたがたは満腹したからわたしを探しているのだ」と言い、「神がお遣わしになったものを信じなさい」と告げます。
本日の福音書は「湖の上を歩くイエス」。イエスより先にベトサイダへ行くために湖に漕ぎ出した弟子たちですが、逆風のために漕ぎ悩みます。そこへイエスが湖の上を歩いてやってきて通り過ぎようとしたので、弟子たちは驚きます。そこでイエスが船に乗り込むと嵐は静まり、弟子たちはさらに驚くのです。
本日の福音書は「五千人の給食」。イエスは弟子たちを休ませようとしますが、群衆がついてきたこともあり、憐れんで群衆を教えます。しかし夕方になったので弟子たちは群衆を解散させようとしますが、イエスは食べさせるように命じ、五つのパンと二匹の魚を五千人もの人々に分け与え、群衆はみんな満腹になりました。