説教要旨

御手に委ねて

2025年04月13日

本日は復活前主日。今週は「聖週」というイエスの受難を大切にする1週間で、イースター前の教会の信仰のコアとも言うべき1週間です。イエスの受難についての長い長い聖書箇所が、今年はルカから朗読されました。裁判の後のピラトの尋問から始まり、再びの裁判を経て死刑判決となり、十字架の道をたどってゴルゴタの丘で十字架につけられるイエス。「わたしを思い出してください」と言った犯罪人に対して「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言い残し、最後は「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って息を引き取ります。

大斎節も第5主日に入ります。福音書からは「ぶどう園と農夫のたとえ」。神殿の境内で律法学者や祭司長たちとの論争の後、イエスが民衆に向けて語ったたとえです。ぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た主人が帰ってきて、収穫を納めさせようとします。ところが農夫たちは僕を追い返して収穫を納めません。主人は息子なら敬ってくれるかと思って送り出しますが、農夫たちは息子を殺してぶどう園を自分たちのものにしようと画策するというたとえ話です。このたとえを聞いた人々は「そんなことがあってはなりません」と反応し、イエスはここで「隅の親石」の話をします。これを横で聞いていた律法学者や祭司長たちは、自分たちに当てつけてこの話をしたことに気が付きますが、民衆の反応を恐れてイエスに手出しができなかったという流れです。

大斎節も第4主日に入ります。福音書からは「放蕩息子のたとえ」。誰もが知っている有名なお話です。ちなみに聖書協会共同訳になって、「放蕩息子のたとえ」というタイトルが「いなくなった息子のたとえ」に変更されています。このたとえは独立して語られることも多いのですが、その前の「見失った羊のたとえ」「なくした銀貨のたとえ」と3つ合わせて「失われたもの」に対する神の態度を示した一連のたとえ話として機能していますから、考えてみればこのタイトルのほうがいいかもしれないと思います。

大斎節も第3主日に入ります。福音書からはイエスが「悔い改めなければ滅びる」と「実がならないいちじくのたとえ」が読まれます。イエスのところにピラトの行為について言ってくるものがいますが、イエスはシロアムの塔の話も交えながら、災難に遭ったのは罪人だったから、という考えを否定します。そしてみんなが神さまのほうに向きなおらなければならないのだ、と説き聞かせるのです。続いていちじくの木のたとえを話します。

わたしはやめない

2025年03月16日

大斎節も第2主日になりました。福音書ではファリサイ派の人々がイエスに対して「ヘロデがあなたを殺そうとしている」と忠告する場面が読まれます。イエスはそれに対して「わたしはやめない」と返答し、ファリサイ派の人々を退けています。

本日は大斎節第1主日。今年はルカによる福音書から悪魔の誘惑が読まれます。40日40夜の断食の最中、そしてその後もイエスは誘惑を受けられます。「石をパンに変えること」「世界の国々を支配すること」「神殿の屋根の端から飛び降りること」の三つの誘惑をイエスが退けると、悪魔は時が来るまでイエスを離れたと聖書には記されています。

イエスに聞こう

2025年03月02日

いよいよ今週水曜日から大斎節が始まります。毎年大斎節前主日は「イエスの姿が変わる」場面が、別の福音書から読まれます。今年はルカによる福音書からですね。このお話、基本的なストリーは変わりませんが、それぞれ細部が少しずつ違います。基本的な流れは、イエスがペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて山に登って祈ること。その際にイエスの顔が変わり、光り輝きます。そしてペトロたちが寝ている間に、モーセとエリヤが現れてイエスと語り合うのです。最後に雲が晴れるとイエスだけが残り、神の声がする、という流れです。

最低限のライン

2025年02月23日

顕現後の週も7回目に入り、いよいよ大斎節が近づいています。本日の福音書はイエスの「平地の説教」から「敵を愛せ」とイエスが説く場面。イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」といった言葉は有名ですが、こちらもまた衝撃的なものです。そもそも「敵」と思っている相手を「愛する」ことができるのかどうか、首をかしげてしまいそうです。

顕現後の週も6回目に入り、本日の福音書はイエスの「平地の説教」と呼ばれる場面です。似たような言葉の箇所はマタイとマルコの福音書にもあり、マタイによる福音書では8つの「幸い」をあげて人々を慰めますが、ルカは「幸い」の後に「災いだ」という言葉を付け加えています。というより、4つの幸いと4つの災いが対比されているのですね。「幸い」が祝福の言葉であるなら、「災い」は呪いの言葉で、「災いあれ」というのは「呪われよ」とも訳せる、少し強い言葉です。

顕現後の週も5回目に入り、本日の福音書は「漁師を弟子にする」場面。ガリラヤ湖のほとりに着たイエスは網を繕う漁師たちに出会い、彼らに命じて船をこぎださせ、ついてきた群衆を教えます。そしてそのまま漁をするように漁師たちに言います。漁師たちは「多分捕れないだろう」と言外に言いながら「あなたが言うのなら」と湖に網を降ろすとたくさんの魚が捕れ、漁師たちは驚き、「人間をとる漁師にする」というイエスに全てを捨てて従います。

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