誰かが湖をやってくる
本日の福音書は「湖の上を歩くイエス」。イエスより先にベトサイダへ行くために湖に漕ぎ出した弟子たちですが、逆風のために漕ぎ悩みます。そこへイエスが湖の上を歩いてやってきて通り過ぎようとしたので、弟子たちは驚きます。そこでイエスが船に乗り込むと嵐は静まり、弟子たちはさらに驚くのです。
本日の福音書は「湖の上を歩くイエス」。イエスより先にベトサイダへ行くために湖に漕ぎ出した弟子たちですが、逆風のために漕ぎ悩みます。そこへイエスが湖の上を歩いてやってきて通り過ぎようとしたので、弟子たちは驚きます。そこでイエスが船に乗り込むと嵐は静まり、弟子たちはさらに驚くのです。
本日の福音書は「五千人の給食」。イエスは弟子たちを休ませようとしますが、群衆がついてきたこともあり、憐れんで群衆を教えます。しかし夕方になったので弟子たちは群衆を解散させようとしますが、イエスは食べさせるように命じ、五つのパンと二匹の魚を五千人もの人々に分け与え、群衆はみんな満腹になりました。
本日の福音書は「十二人の派遣」。イエスが十二人の弟子たちを二人一組で派遣します。彼らはイエスの指示通りに出かけていき、悪霊を追い出し、病人をいやします。出かけるときは杖一本を持ち、他のものは何も持たずに出かけるように言われます。また、イエスは受け入れられなかった場合は足の塵を払い落としなさいと伝えます。
本日の福音書は「ナザレで受け入れられない」とタイトルがつけられており、イエスが故郷のナザレに行った時の様子が描かれています。ナザレの人々はイエスのことを「よく知って」います。「マリアの息子であった」「大工であった」「兄弟や姉妹も知っている」と、口々に言うのです。そして彼らはイエスについて「このようなことをどこから得たのだろうか」と訝しむのです。
本日の福音書は「ヤイロの娘」。会堂長であったヤイロが、娘が死にそうだとイエスに助けを求めます。イエスと一緒に家に向かいますが、すでに娘は亡くなっており「もう来なくても大丈夫です」と言われてしまいます。しかしイエスは「死んだのではなく、眠っているのだ」と言い、ヤイロの家に行って少女に「タリタ・クム」と呼びかけると少女は起き上がるのです。
本日の福音書は「突風を鎮めるイエス」。向こう岸にわたるために湖に漕ぎ出すイエス一行を突風が襲います。イエスは艫の方で寝ていますが、弟子たちが「わたしたちがおぼれ死んでも、かまわないのですか」と訴えると起き上がって「黙れ、沈まれ」と風に命じて沈めます。そこで弟子たちは驚きを示し「一体この方はどなたなのだろう」と互いに言い合います。イエスが「神の言」として命じると、イエスの言葉がすべて現実となる、イエスのことを端的に示したエピソードです。
本日の福音書は「成長する種のたとえ」と「からし種のたとえ」。どちらも「種」の関係するたとえであり、何のことを言っているかと言えば「神の国」についてです。神の国は種のように小さいものから始まり、わたしたちが手をかけるのではなく「夜昼寝起きしているうちに」大きくなり、しかも葉の陰に鳥が巣を作れるほど大きくなる、とイエスは語ります。
本日の福音書は「ベルゼブルについて」、そして「イエスの母、兄弟」についての問答です。今日は前半部分を見ていきましょう。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とありますが、要するにイエスの活動は身内の人に全く理解されていなかったということです。エルサレムから下ってきた律法学者たちもまた、イエスを理解しようとしない人たちでした。イエスのことを「ベルゼブルの力を使っている」と貶める律法学者に対して、「内輪もめでは立ち行かなくなる」=「イエスは悪魔ではなく聖霊の力を使っている」とイエスは反論します。
教会暦は今日から聖霊降臨後の節に入り、福音書はマルコを順に読んでいくことになります。今日は「安息日について」の問答です。ある安息日にイエス一行が麦畑を通り抜ける際、弟子たちが麦の穂を摘んで食べていたことで論争が始まります。安息日に麦の穂を摘むのは「収穫」にあたり、これは安息日に禁じられている「労働」なので問題ではないか、とファリサイ派の人々が指摘しますが、イエスは「安息日は人のためにある」としてこれを退けます。
本日は三位一体主日。先週の聖霊降臨日で父なる神、子なるイエス、聖霊の三つの位格がそろったことの記念日となります。福音書はヨハネから「ニコデモとの問答」が読まれます。夜イエスのもとを訪ねたニコデモが「年を取ったものがどうして生まれることができましょう」と問うとイエスは「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」と答えるのです。