説教要旨

本日は復活節第7主日。昇天日の後の特別な日で、聖霊降臨日を待ち望む大切な日となります。福音書はヨハネから「最後の晩餐の後の祈り」の最後の部分です。イエスは「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」と祈ります。

世が与えるように

2025年05月25日

本日は復活節第6主日。福音書はヨハネから「聖霊を与える約束」の後半部分です。聖霊がすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる、とイエスは言います。そして、イエスは世を去っても「平和」を残していくと、さらに「世が与えるように与えるのではない」というのです。ヨハネによる福音書のイエスの発言は、全体的に簡単な言葉を使っているようでありながら、どうも何を言っているのかわかりづらい感じがします。今回の箇所もそんな感じです。

新しい戒め

2025年05月18日

本日は復活節第5主日。福音書はヨハネから「新しい戒め」。最後の晩餐の際、イエスがユダに対してパン切れを浸して与えるとユダは出ていきます。そこでイエスは残った弟子たちに対して「互いに愛し合いなさい」という戒めを告げるのです。そして「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るであろう」と言います。

自分で選び取る

2025年05月11日

本日は復活節第4主日。福音書はヨハネからイエスがユダヤ人たちと神殿で論争する様子が読まれます。ユダヤ人たちはイエスに対して「あなたがメシアならはっきり言いなさい」と迫り、イエスは「わたしは言ったのにあなたがたは信じないではないか」と返します。

わたしは漁に出る

2025年05月04日

本日は復活節第3主日。福音書はヨハネからイエスが復活後、ティベリアス湖畔で7人の弟子たちに現れた様子です。「わたしは漁に出る」と宣言して向かうペトロに、他の弟子たちも従って船に乗りますが、さっぱり魚が捕れません。夜明け頃岸に戻るとイエスがいますが、最初弟子たちはわかりませんでした。しかし「船の右側に網を打ちなさい」と言われて網を打ったところ、おびただしい魚が捕れます。そこで弟子たちはイエスだと気づき、イエスと共に朝の食事をとります。

平和があるように

2025年04月27日

イースターが終わり、復活節後の喜びの期間も今日でちょうど1週間。福音書はヨハネからイエスが閉じこもる弟子たちの前に現れた場面と、いわゆるトマスの疑い。イエスの十字架を見て、恐れて鍵をかけて閉じこもる弟子たちのところにイエスが真ん中に現れ「あなた方に平和があるように」と言い、聖霊を授けます。その時にいなかったトマスはイエスが来たことを疑いますが、次の週には再びイエスが弟子たちのところに現れ、トマスは念願のイエスに会うことができ、復活を信じた、という流れです。

イースターおめでとうございます! イースターに設定されている日の中でも一番遅いイースター。三寒四温ですが、草木が芽を出し始めており、すっかり春になりました。外も新しい命の誕生に満ち溢れています。朗読はルカによる福音書から、婦人たちが墓に行った場面。墓に行ってはみたものの、イエスの遺体はなく、代わりに輝く衣を着た二人の人がいて「イエスは復活した」「イエスの話していたことを思い出しなさい」と告げたので、婦人たちは使徒たちにこのことを伝えます。

御手に委ねて

2025年04月13日

本日は復活前主日。今週は「聖週」というイエスの受難を大切にする1週間で、イースター前の教会の信仰のコアとも言うべき1週間です。イエスの受難についての長い長い聖書箇所が、今年はルカから朗読されました。裁判の後のピラトの尋問から始まり、再びの裁判を経て死刑判決となり、十字架の道をたどってゴルゴタの丘で十字架につけられるイエス。「わたしを思い出してください」と言った犯罪人に対して「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言い残し、最後は「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って息を引き取ります。

大斎節も第5主日に入ります。福音書からは「ぶどう園と農夫のたとえ」。神殿の境内で律法学者や祭司長たちとの論争の後、イエスが民衆に向けて語ったたとえです。ぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た主人が帰ってきて、収穫を納めさせようとします。ところが農夫たちは僕を追い返して収穫を納めません。主人は息子なら敬ってくれるかと思って送り出しますが、農夫たちは息子を殺してぶどう園を自分たちのものにしようと画策するというたとえ話です。このたとえを聞いた人々は「そんなことがあってはなりません」と反応し、イエスはここで「隅の親石」の話をします。これを横で聞いていた律法学者や祭司長たちは、自分たちに当てつけてこの話をしたことに気が付きますが、民衆の反応を恐れてイエスに手出しができなかったという流れです。

大斎節も第4主日に入ります。福音書からは「放蕩息子のたとえ」。誰もが知っている有名なお話です。ちなみに聖書協会共同訳になって、「放蕩息子のたとえ」というタイトルが「いなくなった息子のたとえ」に変更されています。このたとえは独立して語られることも多いのですが、その前の「見失った羊のたとえ」「なくした銀貨のたとえ」と3つ合わせて「失われたもの」に対する神の態度を示した一連のたとえ話として機能していますから、考えてみればこのタイトルのほうがいいかもしれないと思います。

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