生きている者の神
本日の福音書はサドカイ派との「復活について」の問答。レビラート婚の習慣を引きながら、「復活があったらどうするのか」と言うサドカイ派に対して、イエスは「死者は復活するし、復活後は今までの命とは違うのだ」と示してこれを退けます。最後にイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。
本日の福音書はサドカイ派との「復活について」の問答。レビラート婚の習慣を引きながら、「復活があったらどうするのか」と言うサドカイ派に対して、イエスは「死者は復活するし、復活後は今までの命とは違うのだ」と示してこれを退けます。最後にイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。
本日の福音書は「徴税人ザアカイ」のお話。嫌われ者の徴税人ザアカイの住むエリコの町にイエスが通りかかり、背が低かったザアカイは群衆の後ろだと見えないので、イエスを一目見ようと木に登ります。イエスはその下で足を止め、ザアカイの家に泊まると言い、ザアカイは悔い改めることになった、というお話です。エリコの町には「ザアカイが登った木」と言い伝えられる木がまだ立っているそうです。
本日の福音書は「ファリサイ派と徴税人」のたとえ。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対してイエスが語ったとされるお話です。ファリサイ派と徴税人が神殿に行って祈った、その祈りを対比しながら「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは語ります。
本日の福音書は「やもめと裁判官」のたとえ。絶えず祈るべきであり、落胆してはならないことを教えるためにイエスが語ったたとえです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官に対して一人のやもめが、しつこく「相手を裁いて、私を守ってください」と言うので、その裁判官は面倒だからと裁きを行ったというたとえです。
本日の福音書はイエスが規定の病を患っている10人を清めたときの話。「規定の病」はかつては「らい病」とか「重い皮膚病」と訳されていましたが、これは要するに皮膚の疾患のことで、これを患っている人は仲間から外されてしまうという決まり(規定)があったので「規定の病」と訳されることになりました。彼らは村などの入口にいますが、「近寄ってはいけない」という決まりがあるので、近くではなく遠くからイエスに呼び掛けます。イエスは彼らを憐れみ「行って祭司たちに体を見せなさい」と言い、彼らを癒やされました。「祭司たちに体を見せる」というのは、「規定」を運用しているのが祭司たちなので、彼らに「治った」と認定されれば、交わりの中に回復されるからです。その中の一人が行く途中に気が付き、神を崇めながら戻ってきました。...
本日の福音書は「からし種」のたとえと「食事の用意をする僕」のたとえ。イエスが弟子たちに「信仰を増してください」と言われたときにしたたとえです。「からし種」は種の中でも小さな種ですが、そのくらいでも信仰があれば、桑の木に無茶な命令を出しても言うことを聞く、とイエスは言います。そして「僕」は自分の役割を果たすのが当然で、それは「必ず感謝されなくてはならない」というものではなく、むしろ僕であるなら「すべきことをしたにすぎません」と言いなさい、というのです。これはなかなか厳しい言い方だと思います。なぜなら人はどうしても、称賛されることを求めますし、そのつもりがなかったとしても褒められれば喜ぶのが普通のことだからです。
本日の福音書は「金持ちとラザロ」のたとえ。金持ちがぜいたくをして暮らす一方で、家の門前にいた貧しいラザロ。死後、ラザロはアブラハムのところにいる一方で、金持ちは陰府でさいなまれています。金持ちはアブラハムにラザロを自分のところに遣わしてくれるように頼みますが、「深い淵がある」とアブラハムに言われてしまいます。そこで、せめて自分の兄弟たちに警告してほしいと願いますが、こちらも「モーセと預言者」がいるではないかと断られます。金持ちは食い下がるのですが「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言われてしまいます。
本日の福音書は「不正な管理人のたとえ」。先週の「無くしたものが見つけられる」3つのたとえに引き続いて、弟子たちに対してイエスが語ったものです。「不正の富で友達を作りなさい」「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とイエスはまとめています。
本日の福音書は「見失った羊のたとえ」と「無くした銀貨のたとえ」。3つの「失われたものが見いだされる」話の最初の2つのお話です。この3つのたとえはファリサイ派や律法学者たちがイエスを批判して「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」と文句を言ったところから始まります。これにイエスが語ったのが「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「いなくなった息子のたとえ」(これは「放蕩息子」として有名ですね)の3つの話です。これらのたとえでイエスは「罪人」や「徴税人」を「失われたもの」、「探す人」を「神」として話を展開しています。神は決して人を見捨てることがないのだ、ということです。
本日の福音書はイエスがついてきた群衆に教える場面。「自分の家族を憎まないものはわたしの弟子ではない」「自分の十字架を負ってわたしに付いてくるものでなければ、わたしの弟子ではありえない」「自分の財産をことごとく捨て去るものでなければ、あなたがたのうち誰一人としてわたしの弟子ではありえない」、と厳しい言葉が続きます。この言葉を聞くと、この厳しさによってイエスが何を伝えたかったのか本当によくわからなくなってしまいます。