愛の見守りによる試練
本日は大斎節第1主日。洗礼の後、イエスは霊によって荒れ野へ追いやられます。「これはわたしの愛する子」と言われながら、「荒れ野」へ追いやられるのです。
本日は大斎節第1主日。洗礼の後、イエスは霊によって荒れ野へ追いやられます。「これはわたしの愛する子」と言われながら、「荒れ野」へ追いやられるのです。
本日は大斎節前主日。毎年共観福音書から山の上でイエスの姿が白く変わる場面が読まれます。白く輝くイエスと同時にモーセとエリヤが現れて共に語り、イエスと一緒にいたペトロ、ヤコブ、ヨハネが恐れるという場面です。モーセとエリヤからイエスに引き継がれ、その後はペトロ、ヤコブ、ヨハネに引き継がれてく様子が描かれます。
本日の福音書ではイエスが、シモンのしゅうとめをはじめ、多くの人をいやした後、人里離れた寂しいところで祈ってから、ガリラヤ中の町に出かけていきます。そしてそこで宣教し、悪霊を追い出したと記されています。イエスの活動は「悪霊を追い出すこと」と「癒し」が中心でした。また、その合間にたくさんの人を前にして語りかけるのです。こうやって活動をしている途中、イエスはよく「寂しいところ」や「人里離れたところ」や「山」で祈ったり、「湖の方へ退いたり」します。活動の合間に「祈る」ことを大事にしていた、一人になることを大切にしていたのでしょう。
本日の福音書はイエスがカファルナウムで汚れた霊を追い出す場面。イエスがカファルナウムの会堂で教えていると、汚れた霊に取りつかれた男が絡んできますが、イエスが「黙れ、この人から出ていけ」と叱ると汚れた霊が出ていきます。人々はイエスの行動に「これはいったい何事だ。権威ある新しい教えだ。」と驚くのです。
本日の福音書はイエスが4人の漁師を弟子にする場面。イエスは荒れ野から戻った後、最初に弟子たちを勧誘します。ガリラヤ湖のほとりで網を繕うペトロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネの4人に「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」と声をかけ、彼らはイエスに従います。
本日の福音書はフィリポとナタナエルが弟子になる場面。「わたしに従いなさい」とイエスにイエスが「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った」とナタナエルを誘います。ナタナエルは一瞬躊躇しますが、「来て、見なさい」というフィリポの言葉に促されてイエスに会い、「まことのイスラエル人だ」と言われてイエスに従います。「従いなさい」と言われて従ったフィリポはともかく、「まことのイスラエル人だ」と言われて従うのを決めたナタナエルの「従った理由」というのがよくわからない、そんな話です。「いちじくの木の下にいた」はもっとわかりません。
本日は「主イエスの洗礼」の記念日。福音書はマルコによる福音書から洗礼の場面が読まれました。霊が鳩のようにイエスに下り「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえます。イエスは洗礼の際に霊を受け、活動を開始します。この出来事が「顕現」や「公現」と呼ばれ、この時期にお祝いされています。「イエスの召命」とも言える出来事です。旧約聖書もイザヤ書から「第2イザヤの召命」の部分が朗読されました。
クリスマスから1週間が経った今日、教会はクリスマスのお祝いの中にあります。カトリック教会では「聖家族」の主日と言われ、ヨセフによって家族ともどもエジプトに脱出したことをおぼえてお祈りする日です。さて、今日の福音書はクリスマスとほぼ同じで、少し長くなってきます。この「少し長くなった」部分に、今日のポイントがあるのかなと思います。この部分はイエスについて「わたしたちはこの方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた」と表現しています。そして、そのイエスが「神を示した」というのです。
クリスマスおめでとうございます。本日は実際はちょっと早いですがクリスマスのお祝いです。先ほどの朗読はヨハネによる福音書の最初の部分です。「言は肉となって、私たちの間に宿った」と書かれていますが、これがクリスマスの出来事です。「言」というのは「神の言葉」のことであり、イエスのことを指しています。その「言」が「赤ちゃんとして、肉体を持ったものとして生まれた」ということを言っているわけです。
本日の福音書はヨハネによる福音書の冒頭部分から洗礼者ヨハネについて言及されている部分が読まれます。洗礼者ヨハネは「光ではなく、光について証をするために来た」と言われます。実際自分も「わたしはメシアではない」とはっきり言いきっています。ほかにもいくつか名前が上がりますが、これらの人々は「世の終わりの前に来る」と言われていた人々であり、ヨハネはこれに対しても「わたしはそうではない」とはっきりと言い切ります。では誰なのかと問われると「わたしは荒れ野で叫ぶ者の声である」と言うのです。そして、ヨハネは「光について」証をするのです。