嵐の中の一歩
本日の福音書はイエスが湖の上を歩く場面。弟子たちが湖の上で漕ぎあぐねているところにイエスが歩いて現れます。その後ペトロが歩いてイエスのところに行こうとしますが沈みかけてしまい、イエスが風を静めます。
本日の福音書はイエスが湖の上を歩く場面。弟子たちが湖の上で漕ぎあぐねているところにイエスが歩いて現れます。その後ペトロが歩いてイエスのところに行こうとしますが沈みかけてしまい、イエスが風を静めます。
今日は「主イエス変容の日」。この祝日は固定祝日なので、通常の「特定」の主日に優先します。聖書は必ず共観福音書から山でイエスの姿が変わる場面が読まれます。どの福音書でも話の流れは同じで、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登ったイエスの姿が、祈っているうちに白く輝く姿に変わり、モーセとエリヤと一緒に語りあいます。そこでペトロは「幕屋を建てましょう」と言いますが、雲が現れ、天から声がするとイエスしか残っていなかった、という話です。
今週の福音書は天の国について、イエスが5つのたとえで語った部分です。語られたたとえは「からし種」「パン種」「畑に隠された宝」「良い真珠を探している商人」「魚を囲みいれる網」の5つですが、それぞれニュアンスが違います。「小さいけれど大きく成長するもの」「材料に入れると大きく膨らむもの」「探し求めるもの」「自分のすべてをなげうってでも手に入れたいもの」「選ばれるもの」という感じでしょうか。かなり多くのイメージがありますが、それぞれをつなげながら少し考えてみましょう。
今週の福音書は毒麦のたとえ。前半はイエスが「毒麦のたとえ」を語ります。天の国には良い麦の種だけではなく、毒麦も蒔かれてしまうことがあり、その対処として僕(しもべ)たちは「行って抜き集めておく」ことを提案しますが、「刈り入れの時まで両方とも育つままにしておきなさい」と主人は言うのです。後半はその解き明かしで、世界という畑に蒔かれた麦や毒麦の種が、世の終わりという刈り入れの時に天使たちに刈り取られる、と語られます。
今週の福音書は「種を蒔く人のたとえ」。道端、石だらけの場所、茨の上、良い土地、などなど様々な場所に種が落ちますが、芽が出たり出なかったり、様々な道をたどります。福音の種はあちこちに蒔かれますが、収穫にまで至る種は必ずしも多くないとイエスは捉えています。
今週の福音書では、イエスが「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と語ります。「私の軛」は軽いとイエスは言います。
今週の福音書では、イエスが「私が来たのは地上に平和ではなく、剣をもたらすためだ」と語ります。わたしたちは教会で「平和」について語りますし、イエスというと「優しい」とか「平和」というイメージがありますよね。「剣」とか「敵対」という言葉がなんとなくなじみません。そんな平和的なイエスさまは受け入れられない、と思ってしまいます。しかし聖書をよく読んでみると、イエスは別にいつも優しく平和的なわけではありません。いわゆる「宮浄め」の出来事のように大暴れすることもあるし、激しく弟子たちを叱責することもありますし、厳しい言葉で話すこともあります。「優しいイエスさま」という側面だけでは決してないのです。
今日の福音書はマタイによる福音書からイエスの勧めが読まれます。イエスは迫害を予告し、それに対して「体は殺しても命は殺すことのできない者どもを恐れるな」と言い、「誰でも人々の前で私を認めるものは、私も天の父の前でその人を認める」と人々を励まします。
今日の福音書はマタイによる福音書からイエスが群衆を憐れんで癒しのわざを行い、12人の使徒たちを選ぶ場面が読まれます。イエスは「ありとあらゆる病気や患いを癒された」と記されています。また、選んだ12人の使徒たちに対しても「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すため」の権能を授けるのです。
今日の福音書はマタイによる福音書から徴税人マタイが弟子になる場面。イエスが「私に従いなさい」と声をかけるとマタイはイエスに従います。そしてイエスのところで同じ徴税人たちと食事をするのですが、そのことに関してイエスはファリサイ派の人たちから「あんな奴らと一緒に食事をするとは」と批判されますが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と一蹴します。