説教要旨

神と人を愛する

2024年11月03日

本日の福音書はマルコから、律法学者とイエスの議論です。「戒めの中でどれが一番か」と問う律法学者に対して、イエスが「第一は『聞け、イスラエルよ。』、第二は『隣人を自分のように愛しなさい』だ」と答える場面です。「聞け、イスラエルよ」(シェマー・イスラエル)は、別名「シェマの祈り」とも呼ばれるもので、「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」と続きます。これはユダヤ教の一番大切な祈りとされ、朝晩必ず唱え、札などに書いて身に着け、子どもに教えるとされているお祈りです。イエスはこれに一つ付け加えます。それが「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めです。その上で「この二つにまさる戒めは他にはない」として、他の戒めを相対化するのです。

本日の福音書はマルコから、盲人バルティマイが癒される場面です。エリコの出口で物乞いをしていたバルティマイは、イエスが来たと知ると「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びます。周囲が静止しても聞かず叫び続けるバルティマイをイエスは呼び寄せ「何をしてほしいのか」と問いかけます。バルティマイはそこで自分の望みを口にし、癒され、イエスに従うのです。

本日の福音書はマルコから、ヤコブとヨハネが「わたしたちを両脇に座らせてください」とイエスに願い出て却下され、イエスが「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と諭す場面です。イエスは最後に「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」と弟子たちに伝えます。

ラクダの通れる針

2024年10月13日

本日の福音書はマルコから、イエスが「永遠の命を受け継ぐこと」について質問されて、「行って持っている物を売り払って施し、それからわたしに従いなさい」と答えた場面。最後は有名な「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」という言葉で閉められます。

二人は一体となる

2024年10月06日

本日の福音書はマルコから、ファリサイ派の人々がイエスに離縁について尋ねた場面です。イエスを試そうと「夫が妻を離縁することは赦されているでしょうか」と尋ねるファリサイ派の人に対してイエスは質問を質問で返します。「モーセは離縁状を書いて離縁することを赦しました」とファリサイ派の人が言うと、「あなたがたの心がかたくなだから、モーセはそうした」とイエスが答え「神が結び合わせてくださったものを、『人は』離してはならない」と断じます。

本日の福音書はマルコから、(多分)勝手にイエスの名を使って悪霊を追い出していた人をやめさせた弟子たちに対して、「やめさせてはならない」といった場面と、それに続けて「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせるものは、海に投げ込まれるほうが良い」と諭す場面です。

偉いってなんだ

2024年09月22日

本日の福音書はマルコから、イエスが再び人の子=自分の今後について語る場面と、「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちに対してイエスが「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と諭す場面です。

本日の福音書はマルコから、イエスが自分のことについて弟子たちと話す場面です。周りの人がどのようにイエスのことを言っているのかを弟子たちに聞くと「洗礼者ヨハネ」とか「エリヤ」とか「預言者の一人だ」などとの答えが返ってきます。そこでイエスがペトロに聞くとペトロは「あなたはメシアです」と告白するのです。そう答える一方で、ペトロはイエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日後に復活する」と言い出した時に、脇へ連れ出してイエスを諫めようとして「退け、サタン」と叱られてしまいます。最後にイエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と人々に教えるのです。

広めずに広まる

2024年09月08日

本日の福音書はマルコから、イエスが目と口が不自由な人を癒やす場面。ガリラヤ湖のほとりで、人々によって連れてこられた耳と口が不自由な人に「エッファタ(開け)」と言うと、耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになりました。イエスは「このことを誰にも話してはいけない」と口止めしますが、かえって人々はイエスの奇跡を言い広めます。

けがれを越えて

2024年09月01日

本日の福音書はマルコに戻り、イエスとファリサイ派の人々との「汚れ」に対する論争が描かれています。手を清めずに食事をするイエスの弟子たちに対して、ファリサイ派の人々がかみつくのですが、それに対してイエスが「人の外から入るものが人を汚すのではなく、人から出るものが人を汚すのだ」と言い放ちます。ここで注意しておかなくてはいけないのは、別にイエスやファリサイ派の人々は「衛生」の話をしているのではないということです。「衛生」ではなく「穢れ」の話をしているのです。漢字だけを見ると「汚れ(けがれ)」と「汚れ(よごれ)」を一瞬混同してしまいそうですが、そこに気をつけて読んでいきましょう。

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